ヘクトパスカル
JR総武線千葉行に乗って市ヶ谷を過ぎて浅草橋を過ぎて錦糸町を過ぎて本八幡を過ぎて、過ぎて過ぎて西船橋、に、着いて、降りて、改札を出て、北口を出て右手にある低層ビルに入って切れかけの蛍光灯がちろちろと点滅する階段を降りて貸しスタジオの扉を開けるまでの時間、考えるともなく考えていたこと。たとえば。たとえばだ。気圧が株で、ヘクトパスカルがお金の単位だったとする。低気圧の日は1株あたりの値段(ヘクトパスカル)が安値だ。だからこのときに気圧株を買っておいて、高気圧になってからその気圧株を売り飛ばせば、差額分のヘクトパスカルが儲けとして手元に残る。そう、低気圧は買いのチャンスなのだ。そして高気圧は売りのチャンスなのである。ここまで大丈夫ですか?
「たぶん大丈夫じゃないし、疲れていますね?」
受付で会員証を出して鞄をロッカーに預けて貝原さんとDスタジオに入ってドラムスティックを握るまでわたしは貝原さんに向かってべらべらと口を動かし続けていて、だから疲れていて、今日は気圧が低い。
「疲れているし」
「ですよね」
「大丈夫じゃないんですけど」
「はい」
「それは仕事の話なので、だから大丈夫で」
「はい」
「あたしゃ今日もやる気です」
「よっしゃー」
じゃあシングルストロークからいきましょか、と貝原さんが言いながらメトロノームのスイッチを押して、BPM50、55、60、65、すこしずつ速くなっていく。速くなっていくのは案外かんたんで、そこからまたBPM50に戻っていく、遅くなっていくのがむずかしい。貝原さんにあんな話するんじゃなかった。気圧計の波線のイメージがBPMと重なる。気圧が上がると身体もラクで、下がるとしんどい。速くなるのはかんたん。遅くなるのはむずかしい。いや、上がるにしても下がるにしても、速くなるにしても遅くなるにしても、急激なアップダウンはそれ自体しんどい。身体が、リズムが、とまどう。一緒。いや一緒ではないんだろう、たぶん。ダブルストロークも終えて、チェンジアップ。すこし休んでから今度はアクセント移動を速いテンポや遅いテンポで。緩急を意識して撥先の軌道がおろそかにならないように。そのあたりでもう気圧のなんやかやは意識から外れていて、流れる汗、呼吸、メトロノームの電子音、貝原さんが言葉少なにフォームやリズムや呼吸の乱れを指摘してくれるときの声色や口調、そういうあれこれと、そういうあれこれだけがいま存在しているこのDスタジオの、それだけで完結している時間に、ずっといたい。ずっとは言いすぎた。でも、もっといたい。
「なんでしたっけ。気圧が株で気圧株をヘクトパスカルで、あれ」
「いや、もういいんです。ほんとに。ごめんなさい」
レンタル時間もあと5分ほどになって、特に片付けるものもないわたしたちは、Dスタジオを出て自販機でC.C.レモンを買って、貝原さんは南アルプスの天然水を買って、ぐびぐび飲みながら、壁に寄り掛かるようにして話していた。
「いやいや謝らなくても。低気圧が買いなんでしたっけ」
「きくなあ貝原さん。もしかして気圧投資にご興味がおありで……?」
「ありますね。ところでヘクトパスカルと日本円のレートってどうなっているんですか」
「それはちょっと、ダウを参照しないと」
「東証にも問い合わせないと」
「証券の話をしてるわけじゃないのに」
わたしと貝原さんの付き合いは長い。といっても、友達とか親類とか仕事仲間とか、そういった感じの付き合いの長さではなく、なんというか説明に困るのだけど、貝原さんは元書店員だ。わたしが生まれてからいままで、いっとき離れたり疎んだりしながらも結局はいまの住処としているここ、西船橋の、駅南口から原木ICの方面まで7〜8分歩いたあたりにあった中規模書店、ブックス・ホークアイに、わたしが中学生だったころから、5年ほど前まで、貝原さんは店主としてお店に立ち続けていた。ホークアイは、原木ICのすぐそばという立地条件から、中〜長距離を運転するドライバーが利用客の6割、地元の利用客が4割、といった塩梅だったようで、だからなのか、雑誌類の棚がやたらと充実していた。漫画雑誌の棚ひとつをとっても、週刊・月刊の、見覚えや聞き覚えのあるものから、西船近辺で手に入れるとしたらここかAmazonか、といったようなマイナー漫画誌や、そのバックナンバーまで棚差しされていたのだった。そして貝原さんと数人のアルバイト店員のいい加減さ、というか仕事の回らなさも相まって、ほとんどの雑誌がなんの梱包も結束もされず、されていたとしてもモラルの欠如したお客さんの所業によってそれらが剥がされ、立ち読みし放題になっていた。わたしも、高校時代は『楽園 Le Paradis』『コミックビーム』『IKKI』の最新号目当てに足繁く通っては立ち読みにふけっていたので、貝原さんにとっては疎ましい存在だったのかもしれない。その罪滅ぼしというか感謝のしるしというか、みたいな心持ちで、単行本や参考書などはなるべくホークアイで買っていたのだけれど、やはりそのころから、もしかするともっとずっと前から、すこしずつすこしずつ経営は傾いていたのかもしれない。5年前の夏にひっそりとお店は閉まり、いまホークアイがあった場所はボルダリングジムになっている。お店をたたんだあとの貝原さんは老人ホームで介護の仕事を始め、その老人ホームのスタッフにバンド経験者がちらほらいたこと、貝原さんも学生時代は軽音サークルに所属していたことが重なって、駅前の貸しスタジオでスタッフたちとセッションをしたり、ひとりでスタジオに入って個人練習をしたりするようになった。ホームの出し物でスタッフたちと演奏したりもするらしい。そしてその貸しスタジオの入っている低層ビルの、入り口の重いガラス扉に貼られた「ギター、ドラム、コントラバス、エレキベース、ヴォーカル、キーボード、ゴスペル、DJ。当スタジオでは多様なレッスンを多様なスタッフが、初心者の方から経験者まで、ひとりひとりの習熟度に合わせたカリキュラムで実施しています! 生徒絶賛募集中! 詳しくは当スタジオ受付まで!」の紙を、今日みたいな爆弾低気圧とそれによる仕事中の凡ミスで爆発しそうになっていたわたしが棒立ちで眺めていると、個人練習終わりの貝原さんがホクホクした雰囲気で扉を押し開け、つま先が扉にぶつかった拍子で体勢が崩れたわたしはガラスに額を強かに打ち、よろめきながらその場から数歩後退し、貝原さんはぺこぺことわたしに謝ってきたのだった。それが、わたしたちの、新しい、はじめましてのはじまり。
「週1。隔週とかでも、なんでもいいんですけど。一緒にスタジオ入りませんか」
「なにかやってるんですか」
「いやまったく。いや、リコーダーとかいまでも吹けますよきっと。ピアニカもいけそう」
「えっと」
「あ、三矢田です」
「あ、はい、三矢田、さん」
「リコーダーとかピアニカとかはいいんです。そんなのはよくて。貝原さんがやっていることの、そのすごい初歩の初歩みたいなのを、わたしもやってみたいなあと」
「ドラムを」
「ドラムを。はい」
「それは、僕が三矢田さんにドラムを教えるってことですか」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれないです」
「はあ」
自分でもよくわからないことを言っているなあと思ったのだけど、わたしは貝原さんと遊んでみたくなったのだ。この人と、この些細なきっかけで、友達みたいになれたら愉快だな、と直感的に(もっと言うと、偏頭痛によるやけっぱちの人懐こさで)思ったのだ。あの日、扉の前で鉢合わせて、瞬時にお互いが「もしやこの人は」と思ったあの日、わたしたちはふたりで、西船橋駅の北口から南口に回って、原木ICの方へ歩いた。歩きながら話した。
「あなたのことは覚えてますよ」
「でしょうね、って何様だよって感じですけど、でしょうね」
「そうですね」
「ごめんなさい、立ち読みばかりで」
「いいんです。そういう人たちへ抱く愛憎みたいなものも、仕事の一部になっていたので」
「やっぱりあったんですか、憎」
それにしても、返す返す失礼というか、悪い意味で無邪気なわたしである。
「そりゃ。お金だし。でも」
「でも」
「……」
「でも?」
わたしたちは元ホークアイ現ボルダリングジムの目の前にいた。
「気圧の変化で体調が変わるのは、鳥も同じらしいですよ」
「はあ」
「コーヒーゼリーって、実は世界的にかなり珍しい食べ物らしいです」
「コーヒーゼリー……」
「日本にしか存在しないし、海外で、コーヒーゼリーと言っても、通じない」
「へえ」
「どんな国へ行っても、です」
「はあ」
「来週火曜はどうですか。スタジオ」
「えっ火曜。えっスタジオ」
「火曜が駄目なら、木曜でも。ちょっと時間がまだ読めませんが」
「えっ、あ、火曜。だいじょうぶです」
「よかった。そうしましょう」
貝原さんのそのときの表情を、わたしは思い出す。スタジオの料金を割り勘で払って(結局教えてもらっているのだからわたしが全部出しますよ、といくら言っても貝原さんは聞かない)、わたしと貝原さんはいつものように、低層ビルの前で手を降って別れた。小さなバスターミナルを抜けて、コンビニやバーやキャバクラ、キャバレー、いつまでも猥雑さの抜けない西船橋の駅前を、客引きの兄ちゃん姉ちゃんを、強い意思でもってずんずん通り過ぎて、焼肉屋のダクトから排出される焼けた肉のにおいに空腹を募らせながら、どんどん細くなって、人もまばらになって、暗くなっていく道を歩く。偏頭痛が数時間前より和らいでいるのがわかる。スマホを取り出して、気圧アプリを開く。明日は売りだろう。歩く速度も速いだろう。