謝肉祭
絵本のおばけ。しらすの眼。ハムスター。パスワード。カジさん。
夜の甲州街道を歩いている。最初は5人。すぐに4人。
しらすの眼。ハムスター。パスワード。カジさん。
国立劇場のあたりでまた1人、手を振って、3人。
ハムスター。パスワード。カジさん。
幡ヶ谷駅の手前、細い路地の前で、2人。
パスワード。カジさん。
なにも言わないまま、いっそ手をつないでしまいたい。肩にぶつかりたい。言いたい。なにを?なにもかも。ぼくとカジさんの間にあるいくつもの時間。人。場所。名前。過去や今。そのどれにも踏み込めずに、ぼくらは並んで歩いている。
「これは、今でも好きだしずっと、小学生のときからずっと好きなんだけど、ダウンロードバー」
「ダウンロードバー。はい」
「あのバーが、バーの中のなんか青だったり緑だったりするあの液体が、……わたしはあれ液体だと思ってるんだけど、こう、ミミミミミミ、じじじじ、って、左から右に満ちていくのを、画面ずーっと、見ているのが、好き」
「コンビニ寄りませんか」
「聞いてた?」
「ぼくも好きですよあれ」
「たぶんだけど聞いてないでしょ」
ファミマでお茶割りのロング缶を2本買って、また並んで歩く、歩く。
この世には2種類の人間がいる。と、ぼくは恥ずかしげもなく、この手垢にまみれた表現を使う。この世には2種類の人間がいる。いつまでも先輩であり続ける人と、そうでない人。ぼくにとってカジさんは前者だ。
統子さんの1周忌以来だから、1年近く会っていなかったことになる。東京という場所と、カジさんという人が、ぼくの中でうまく噛み合っていないような感覚があって、東京にカジさんがいる、住んでいる、ということをぼくは知っていたはずなのに、カジさんと並んで歩いている今、はじめて知ったような気持ちでいる。ただでさえ東京は、どこか遠くで生きていると思っていた人が平然と暮らしていたりするような場所だ。夕方、突然LINEが送られてきて、カジさんの地元の友人周りの飲み会に誘われて、なんだかよくわからないまま会話を追い続けて、追い疲れて、でも帰りたくなるわけでもなくて。そういう反芻の最中に首都高の高架を見上げて、見上げつつお茶割りを飲んで、カジさんを見て、また高架を見て、前を向いて、歩いている。
パスワード。カジさん。
「こどものころからずっと怖いものってある?」
会の終盤、新宿の磯丸水産でべとべとに酔ったぼくらは、そんな話をしていた。
「おれ絵本の、あれだわ。おばけの」「ねないこだれだ」「それ」「意外〜。あたしはもうずっとしらすが。小さい生命の集合体じゃん」「醜形恐怖症?」「集合体恐怖症でしょ」「あの眼がもう怖すぎる無理」「いくらは?」「いくらは大丈夫……あれっいくらは大丈夫だわ」「金目鯛とかもまじまじ見ると怖くない?」「金目鯛まじまじ見ることある?」「えーやっぱ形か。まあ魚だし」「ハムスターが、う……めちゃ鮮明に思い出しちゃった。ハムスターが自分の産んだの、産んだ子、を、う……」「あ知ってるそれ。なんでだっけ。食べちゃうんだよね」「わっ、へっまじで。うわ、う〜〜〜想像しちゃったぇぇう」「う……。無理」
ハムスターの共食い話からペット、ペットから親、親から富士登山、富士登山からグレゴリー、グレゴリーから麻雀へと話は流れていき、ぼくとカジさんの怖いものについては特に発表の機会がないまま、お開きとなった。
「カジさんさっきなんて言おうとしてました?」
「さっき?」
「怖いもの」
「あ〜」
「なんですか?」
「謝肉祭だね」
「怖いもの」
「うん謝肉祭」
パスワード。謝肉祭。
「……なんなんですか謝肉祭、謝肉祭?って」
「知らない。知らないっていうかうーん。わかんない。ちゃんと調べたことないな。んーなんか。んー……言葉」
「言葉」お茶割りをぐびぐび飲みながら歩いているぼくらを、2台の自転車が追い越していく。走りながらなにかを話しているようで、自転車と一緒に声もぼくらの先へ先へと進んでいく。小さくなる。自転車も、声も。「……言葉」
「えっ怖くない?謝で肉で祭だよ。肉に謝る祭りなんだよ」
「なんなんでしょうねえ」お茶割りはいつだって美味しいな。
「猟奇的だわ〜言葉。ピエロみたいな感覚なのかも。恐怖心?本能が怖がっている感じ。三本は?」
「ぼくは〜、……。なんなんでしょう」
「は?」
「なんなんですかねえ」
「え、何?」
「あんまり言いたくないので、言いません」
「謝肉祭だってまあまあ謎でしょうよ」
「謎ですけど。いや謎じゃないんですけど。なんかいまは恥ずかしいので言いません」
「いまは」
「たぶんいつか言います」
あ、もうこんなとこじゃん。笹塚まで来たところでカジさんは立ち止まり、信号を待って、十号通り商店街の方向へと歩いていった。横断歩道をさっさか歩くカジさんの後ろ姿を見ていると、カジさんは突然振り返って後ろ歩きになり、またね〜〜〜会えてよかった!と大きな声で言いながら、横断歩道を渡りきってまた前を向いて歩いていった。ぼくはずっと手を振っていた。手を振って、これ以上振っているとおかしいかな、というところで腕を下げて、お茶割りの残りを一気に飲み干して、また歩きはじめた。甲州街道。1人。
パスワード。