シークエンス1-1

  • 0021 雷

     道の始まりと終わりと言っていいのか、十字路と十字路の両端で、水道なのかガス管なのか、それとも単なる舗装なのか、工事が行われていて、できたてのアスファルトがくろぐろと湯気を立てていた。道の中ほどに古めかしい八百屋があって、八百屋はアスファルトの湯気に挟まれて変わらず店を開けていた。おばあちゃんが、自転車を押してエマの後ろからゆっくり歩いてくる。その八百屋に向かいたいのだろう。おばあちゃんは地面を見つめて、見張りの作業員を見上げて、ここ通っても大丈夫?と尋ね、ええ大丈夫ですのでと言う作業員の後方、八百屋の方を覗き込むようにして見つめ、また作業員を見つめ、それから地面というより自分の足を見て、大丈夫かしらともじもじしていた。作業員は、ええ、怖がらなくても、と続けて、おばあちゃんの自転車を手に取り、ゆっくり八百屋まで先導していった。そういう光景があって、エマはそれをしばらく見守ってから自転車をゆっくりこぎ出して、職場に向かっていた。怖がらなくても、という作業員の言葉、アスファルトを前に足を止めるおばあちゃんの姿がエマの脳裏に残って、恐れ、怯え、恐怖心、そういう感情の、味わったことのなさ、日常の外にあった組み合わせについて、考えていた。エマはまだ、アスファルトに恐れを抱いたことはない。
     別の日。井ノ頭通りの山のような谷のような勾配を過ぎて、代々木公園の先にある長い広い並木道を抜ける時間がエマは好きだ。たくさんの、自分とは関係のない衣服や装飾品のお店たち、その面構えを視界の端に入れながら目線は道路やそこに影を落とす木々の枝葉に向かっている。夏ならば特に。けれど葉の枯れる冬が駄目というわけでもない。そのときどきの好きな道は、いまこのときではない時間や季節、別の道まで地続きになって記憶とつながる。そういう思いの馳せ方がエマだった。
     並木道をすこし上がったところに、エマが特に気に入っている店がある。ガラス張りの入口から見える店内には目立たない位置にすこしばかりのコート類がハンガーに掛けられているだけで、奥に何があるのかはよくわからない。はりつめた空間が服よりも幅を利かせていて、見るたびに気持ちがスッと伸びていく。何度も通っているうちに、その店がJIL SANDERという名であることを知る。ジルサンダー。綴りは違うけれど、音は雷。どういうことなんだろう。雷と神鳴りみたいなことだろうか。ThunderとSanderも、そういうことだろうか。
     サンダーを通り過ぎたところで着信があって、エマは自転車をこぐ脚を止めずにワイヤレスイヤホンの再生ボタンを押した。
    「はい。もしもーし」
    「鹿が出た!」
     その突然さと声色で、電話の主がアダムだとわかる。
    「しかあ〜」
    「あ、あっ。あっ」
    「なんすか」
    「や、一匹だと思ってたら、子鹿が。あ、草。食べてる食べてるうわ〜」
     アダムの息は荒い。走っているのだろうか。
    「いまちょっと手が離せないんだ。えっと、ほんとの意味で」
    「ファーストピアス?」
    「違うよ。ダイレーションはもっと夜。いま自転車漕いでる」
    「あ〜だから風」
    「そう、うるさい?」
    「いや、でも、どうしよう……」
    「さっきからなんか、なにしてんの?」
     通話越しに、アダムの力んだ声が漏れ聴こえてくる。
    「石投げてる」
    「なにしてんの」
    「走れ走れ!」
    「なにしてんの……」
     アダムの電話は基本的に用件も脈絡もなくて、だからというわけではないがエマはアダムの声を聴くと抱かれたいなあと思う。アダムがいまのエマのことを男だと思っているのか女だと思っているのか、「それ以外」として括られがちな(『どちらでもある』『どちらでもない』)なんらかの性を背負った人だと思っているのか、もっと別の名状しがたい「エマ」という個人でしかないと思ってくれているのかをエマは知らない。エマはアダムを男だと思っている。アダムも、エマの認識と同じ程度には、自分のことを男だと思っている。
    「ねえアダムには怖いものってあるの?」
     脈絡のない人には脈絡なく話を切り出せるから気楽だ。
    「ゴボウは怖いね」
    「ゴボウ」並木道を上りきったエマは、そのまま真っすぐ信号を渡って、4車線から2車線へと切り替わり細くなっていく道を進む。この道の途中にあるYOKU MOKUの真っ青なタイル張りも、サンダーほどではないが、エマは好きだ。
    「昨日、ゴボウのささがきやってるとき、指いっちゃったから」
    「それは注意だねえ」
    「うん注意だよ」
     別の日。職場に向かう同じ道。サンダーを通り過ぎる。アダムからの電話があった日の夜、今季のコレクション写真をネットで見かけて、それ以来、今季かっこいいぞ、と通り過ぎるたびに心の中でサンダーの方向に声をかけるようにしている。
     別の日。サンダーを通るとき、抱かれたいなあと思う。アダムの声を思い出して、毎日のように集まって過ごしていた日々を連想ゲームのように思い返す。アダム、ヨシノ、カジ、サガミ、平子、統子、ミツモト、アキ、イモリ。それぞれとの記憶をなぞる。カジとミツモトは東京にいるらしいがエマは詳細を知らない。サガミも東京にいて、いまは療養中だ。アダムは卒業制作以降ちょくちょく鹿を観察、というか見かけるたびにちょっかいを出し続けていて、ミツモトもミツモトで矜持を貫く職人のような執拗さでカーセックスばかり書いている。狂ったような真剣さで制作や制作以前の話し合いばかりしていたみんなと自分自身を思い出す。
     別の日。
    「人類初めて髭を剃ったヒトって」
    「うん」
    「怖くなかったのかな」
    「うん」
    「自分自身に刃をあてる、あてた、わけでしょう」
    「うん」
    「きっと英雄扱いだよ」
    「うん」
    「ヒトが消えたあと、次に髭を剃り出すのはきっとサボテンみたいな多肉植物だよ」
    「うん」
    「なぜか。知りたいでしょう」
    「うん」
    「ねえエマ」
    「うん」
    「会えたらいいね」
    「うん」
     別の日。
     サンダーを通り過ぎる。通り過ぎたあたりで工事が行われていて、アスファルトから湯気が立っている。エマはまだ、アスファルトに恐れを抱いたことはない。雷にだってない。働いて働いて働いて生きて、エマは会いたい人に会うために生きて、あらゆる性別を通り過ぎて叫ぶように生きる。