
「私の嘔吐」
N・Nさま、
2022年から摂食障害の認知行動療法でお世話になっておりました、丹渡実夢です。
おぼえていらっしゃいますでしょうか。
わたしはこの三月に大学を卒業しました。卒論は摂食障害についてです。
Nさんとのセッションのなかで話したことがいくらか論文の軸になりましたので、もしよければ読んでいただけないかと思ってメールしました。
Iゼミ論文C20926-0丹渡実夢.pdf
突然の連絡ですみませんがよろしくお願いいたします。
丹渡実夢
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卒論が無事通ったことがわかったその日のわたしはひどい胃腸炎にかかっていて、ひとくち飲んだオレンジジュースすらもすぐに吐き戻していた。胃液まじりのジュースが喉と歯にふれた部分をちりちりと灼いている。吐き気と腹痛に悶えながら、三日間寝転んで過ごしたからだは節々が痛み、とはいえ起きあがることもできない地獄だった。もしかしたらもう一生これが治らずに、わたしは吐き気を喉元に抱えつづけるのかもしれないとすら思った。そうであるならば、ええい、この数年の結晶ともいえる卒業論文を以前の心理士さんに送ってしまえ、唐突に思いたってひと思いに送りつけた。「送信を取り消す」の表示が消えるのを待って、わたしはふたたび目を閉じた。
返信は翌日、あっさりと返ってきた。
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実夢さん、
おひさしぶりです!Nです。
ヴァージニア・ウルフという作家の話は以前にもされていましたね。彼女が摂食障害を抱えていたということは知りませんでした。『ダロウェイ夫人』、とってもおもしろそうな小説ですね。
シモーヌ・ヴェイユという人物についても初めて知りました。摂食障害と植物への感性を関連づける視点がおもしろかったです。
すてきな論文をどうもありがとうございます。 お身体に気をつけて過ごしてくださいね。
N・N
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ヴェイユは異様なほどの自己犠牲の精神をそなえ、前線の兵隊が砂糖を食べられない生活だからわたしも砂糖なしでがんばると言いだすほどだった。彼女の最期は、よく知られているように、食事を拒否したすえの栄養失調と肺結核によるものだった。そんなヴェイユが書き遺したテクストにはこんなものがある。
植物の段階にいたるまで、無となること。そのとき、神が糧となる。
——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳(ちくま学芸文庫、1995)p.66
「植物の段階にいたる」、つまり植物そのものになってしまうこと——ウルフもまた、「植物の段階にいたる」=植物化した語りを『ダロウェイ夫人』のなかで見せている。
たしかにわたしはブアトンの木々の一部、ぶかっこうな、つぎはぎ細工のような、だだっ広いあの屋敷の一部、一度も会ったことのない人々の一部となって生き残ってゆく。ちょうど靄が木々に支えられるように、わたしがいちばんよく知っている人たちのあいだに、靄のように広がりながら、彼らの枝に支えられて。
——ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(集英社文庫、2007)p.22
心理学者のペギー・クロード゠ピエールは、摂食障害の発症要因を習慣性自己否定癖(CNC)とした。そして発症する患者たちの特徴として「自分の周りの人々や状況が欲するものに敏感に反応する」「個々の核家族というミクロの世界から、地球的規模のマクロの世界まで、CNCに陥りやすい人は自分が人類に対して責任を負っていると感じてしまう。これらの子供たちは家族のことも、地球のことも同じように心配している」「第一級のヒューマニストと言える」と書いている。彼女たちは他の子供が自分は世界の中心だと思っていたころに、他人の心配ばかりしており、世界の諸問題への極端な責任を持つのだ。
飲食という生命と直結する行為を拒むのはみずからの動物性の否定であり、植物への共感と結びつけて考えられるだろう。それはまず第一に人間の暴力性への批判であり、また人間が損なってきた世界への責任感によるものである。ウルフやヴェイユが植物につよい共感を示し、そして食事に困難を抱えていたのは、そんな人間の暴力を償うためであり、とりようのない責任の行き先が非-人間的なものでしかありえなかったからなのではないか。わたしは論文にそんなことを書いた。
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胃腸炎が治って数日後、わたしはマッチングアプリで知り合った女の子と新宿御苑でレジャーシートを広げ、ピクニックをしていた。よく晴れた空の青と芝の緑、そしてその女の子のハイトーンの金髪がきらきらしていた。乗代雄介が岡山で開催していた写生文ワークショップに影響を受けたわたしの「公園で写生文を書きたい」という要望に付き合ってもらい、わたしたちは並んで景色を書いた。
桜井晴也が『愛について僕たちが知らないすべてのこと』で書いたように「薄青色にきれいにすみわたった空には昨日死んだ子供たちの魂が薄く透きとおるように浮かんで」はいなかった。むしろ地上には生まれて数年しか経っていない子どもたちが、からだに対して重すぎる頭をふらつかせながら一所懸命に歩いている。あるいはレジャーシートにべたりと座りこんだ男の子を中心に大人たちが談笑している。子どもを囲むかれらはたがいを「パパ」「ママ」と言いあい、甘い口調で「どんな味が好き?」と子に問いかける。幼い子どもに問いかけるときには特有の甘ったるさが語尾につきまとう。そんな声たちを聞き流しながらわたしはウルフになりたくて、持ってきていた『ダロウェイ夫人』と外の木々を交互に見つめる。
だが木々は手招きする。葉は生きている、木々は生きている。そして葉は何百万もの繊維によって、ベンチに腰かけているこのぼくの体とつながっていて、それを上へ下へと煽っている。枝がのび広がると、ぼくの体も木々と同じ動きをする。ばたばた羽ばたく雀たち、舞いあがり舞いおりながら交錯する雀たちも、黒い枝が縞模様をなす白と青の構図の一部なのだ。
——同上 p.44-45
紙面と景色を行ったり来たりしているうちに胃腸炎の名残りであろうか、吐き気が再来しわたしの顔は青くなっていった。青くなっていることを冷えてゆく頬と手のひらで感じとる。「大丈夫?って聴きたいところだけれど、大丈夫?って訊かれるのいやでしょう?」と彼女は言う。そう、わたしは「大丈夫?」と訊かれるのが苦手だ。なんで知っているんだろうとぽかんとするわたしに彼女は「読んだから」とピースサインを浮かべ、かばんから付箋を貼った紺色の本を取りだす。彼女とはチャットしているときになりゆきで昨年刊行した自著のタイトルを伝えており、さっそく読破してきてくれていたのだ。
体調が悪そうなひとに「大丈夫?」と訊くのって苦手だなぁと思う。大丈夫じゃなさそうな状態のひとに、大丈夫かどうかを考えさせ説明させるのってけっこうな負担だ。偽って大丈夫と答えるべきか、それとも事実を伝えるべきか、体調の悪さを説明すればより一層の心配をさせることになるし、返答に困らせてしまうかもしれない。そもそも大丈夫か否かなんて、質問としてむずかしすぎる。部分的には大丈夫かもしれないけれど、別の部分は大丈夫ではないことだってあるはずだ。
——丹渡実夢『迂闊 in progress 『プルーストを読む生活』を読む生活』(本屋lighthouse、2025)p.233
家に帰ってすこし吐いた。吐瀉物には思い当たりのない葉っぱのようなものが混じっていた
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参考文献
シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳(ちくま学芸文庫、1995)
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(集英社文庫、2007)
ペギー・クロード=ピエール『あなたの大切な人が拒食症になったら』田村明子訳(新潮社、1998)
乗代雄介、おかやま旅筆会『風景を綴る ——写生文ワークショップ作品集』(おかやま旅筆会、2025)
桜井晴也『愛について僕たちが知らないすべてのこと』(ffeen pub、2025)
丹渡実夢『迂闊 in progress 『プルーストを読む生活』を読む生活』(本屋lighthouse、2025)
丹渡実夢(たんどみゆ)
2001年、千葉県生まれ。文筆、ライター、フラヌーズ。著書に『迂闊 in progress 『プルーストを読む生活』を読む生活』(本屋lighthouse)。ミニシアターでアルバイトをしつつ、映画館で映画を見ている。
