0096 軌跡

軌跡

 すべての物語には奇跡ミラクルが含まれている。奇跡を運命で型取り、必然と偶然で肉付けをする。奇跡は心臓。運命は骨。必然と偶然は肉や血管や皮膚、そして胃や肺、脾臓などなど。「わたし」と「あなた」が出会う。「あなた」が「わたし」のクラスメイトだったから。「わたし」が「あなた」に会いに行く。「あなた」の実家のインターホンを、「わたし」は押せるから。「あなた」は「わたし」の姉弟かもしれない。先輩かもしれないし、後輩かもしれない。対局相手かもしれなくて、主治医かもしれない。幼馴染かもしれない。甲、乙、なんて書面にそれぞれ記される間柄かもしれない。「あなた」は「わたし」に育てられているサボテンや、犬や、亀であるのかもしれず、「わたし」が「あなた」に育てられたサボテンや犬や亀であることだってあるのかもしれない。「あなた」は、「わたし」が生きる時代、あるいは生きていない時代の、どこにいる? 「わたし」は「わたしたち」かもしれないし、「あなた」は、「あなたたち」なのかもしれない。「あなたとわたし」が、「あれ」や「これ」やに出会うことだってある。ひとつひとつ、肉付けされていく不確かなもの。関係性。心臓や骨。「なぜなら」という道のりを、道筋を、遡行的に舗装していく。そうしてすべての物語が、すべての「なぜなら」のはじまりにたどり着く。なぜなら、「わたし」が生まれたから。なぜなら、「あなた」が生まれたから。なぜなら、この世界が、このように在るから。

……

 記憶について語るときの空想を呼び声として、名付けたものどもを追う道筋を歩きながら、そのときどきで思い思いにアンカーを打つ。そうやって、「わたし」は「あなた」に会ってきた。離れてきた。何度でも会って、そのたび手を振り、背を向けて、別れてきた。

……

 「わたしたち」には言葉が必要だ。「わたしたち」には声と、声にまつわる適切な質感、量感、ある特定のピッチやフォルマント、言外に定められたある種の抑揚が必要で、サイズの合った衣服やサイズの合った容姿、いくつかの公的な用紙が必要だ。戸籍が必要で、名前が必要で、医療技術が必要で、お金が必要だ。理解者が必要で、援助者が必要だ。感情による歩み寄りではなく、知識と理性による歩み寄りが必要で、制度が必要で、法律が必要で、やっぱり言葉が必要だ。必要なものどもを所有する者どもに紛れて、「わたしたち」はそうしたさまざまを、やっぱり必要だ、と噛み締めながら生きている。「必要な言葉を、声を、衣服を、容姿を、用紙を、戸籍を、名前を、医療技術を、お金を、理解者を、援助者を、知識と理性による歩み寄りを、制度を、法律を、疎まれながらも必要だと思い続け言い続ける人たち」。「そういう人たち」が、誰にも何も言わなくても、言えなくても、簡単には理解されない些事の集積に窒息しそうになっても生きるのをやめようとしなかったり、やめようとしたりしながら、必要だ、必要だ、と喘ぎ続ける日々を戦うその見えなさの一端を、「わたしたち」のなかの「わたし」は怯えつつ背負っている。
 いつか抜け出したい。できるのかなそんなこと。

……

 こんばんは。
 もしかしたらそう思っているのはわたしだけなんじゃないか、と思いつつ書くのですが、とてもとてもお久しぶりです。そして脈絡もへったくれもないのですが、わたしはバイセクシャルだった。バイセクシャルというよりパンセクシャルだったのかもしれない。そんな言葉はどうでもよかった。言葉はどうでもいいけどどうでもよくなかった。
 どこまで信憑性のある話なのかわからないけれど、人は、自分に似た顔の造形を好きになる傾向があるのだという。「飼い主と飼い犬の顔が似てくる」のではなく、「飼い犬を選ぶときすでに、人は自分の顔に似ている犬を選ぶのだ」ということ。それに当てはめるような当てはめられていないような状態で話を進めると、10代のわたしはいまの何倍も自分のことが嫌いだった。だからなのかわからないけれど、鼻の潰れた女の子のことを心底かわいいと思っていた。いまもそう。女性に対する「鼻が潰れている」という言葉はわたしにとって褒め言葉で、だから(だから?)当時付き合っていた子の鼻を触ろうとしてよく嫌がられた記憶がある。潰れた鼻を綺麗だと思っていた。鼻筋の通った高い鼻を醜いと思っていた。
 それでいまは、いまはというか、男性の顔の造形についてはどうか。鼻の潰れた男性を愛おしいと思うか、というと、そうでもない。鼻筋の通った男性の顔をわたしは綺麗だと思う。それは、時を経て肉体を経て、わたしはわたしを以前より好きになれたということなのだろうか。
 わたしはわたしの失ったものを、わたしにいまもないものを持っている肉体を好きになる。いいな、と思う。ポンプのようなふくらはぎを、意思の通った体毛を、とび出た喉仏を、はっきりと主張された髭を、美しいと思う。粒の粗く、ざらつきのある低い声を、好きだ、と思う。
 これは差別の話ではない。と同時に、差別の話でもある。差別である/差別でない、は往々にして表裏一体で、「わたしの、わたしに対する」「わたしの、あなたに対する」「あなたの、あなたに対する」「あなたの、わたしに対する」差別の話とは無関係だし、同時に、関係がある。
 なんの恥ずかしげもなく、そして緊張や衒いもなく思うことなのですが、わたしは、わたしの声を美しいと思う。いい声だな、と素朴に思う。あの、古めのバラエティ番組の罰ゲームに使われるような、他に用途がよくわからない、長くて太い、きしめんのようなゴム。あれがわたしの声だと思う。あの罰ゲームのシンプルさは美しさだとも思う。罰ゲーム受刑者はゴムの片端を口に咥え、もう一方の端を持つ執行者はどこまでも遠ざかっていき、もう限界だ、というところで執行者はゴムを手放す。緊張から解き放たれたゴムは受刑者の口元へと縮んでいく。衝撃。痛みと笑い。ゴムに限界はない。限界はあるが、それは人間の限界より遠い。先に限界を迎えるのはいつも、それを咥える者、それを持つ者。
 声帯手術を受けることに決めた。決めたらとたんに気持ちがすこし軽くなった。わたしはずっとあの強くて美しいゴムを咥えていて、知らず知らずのうちに限界を待っていたのだと思った。持っている、と思っていたものを、実はわたしは咥えていて、それに気がついたときにわたしは、先に口を開けることを決めた。咥えているからといって、受刑者にならなければいけないなんて、それこそお笑いのコードでしかない(あるいは、受刑者と執行者が裏返るのもまた、お笑いのコードなのかもしれない。わたしも、あなたも、日常に潜むお笑いのコードから逃れるのはとても難しい。悲しいことに)。
 忘れたくないから、あるいは、この言葉の意味を薄めたくはないけれどあえてもう一度。わたしはわたしの声を美しいと思う。わたしの声がすこしずつ低くなりはじめたころ、わたしは自分の声をこんな風に感じるようになるとは思っていなかった。直裁なことを言うと、この声のおかげでわたしは■■■という可笑しくて愉快で人間しかいないパーティに加わることができた。■■へ来れた。■■■■■■で働けて、それで、■■■■■■にいる。この声じゃなかったら行けない場所へ、場所に、いまわたしがいるのだとしたら、このさき自分がどんな声になっても、どんなゴムを咥えても、衝撃、痛みと笑い、それらを乗り越えて、乗り越えるというより受け止めて、受刑者になれるはずだ。そう信じている。綺麗事かな。そう思ってるよ。あなたはどう? あなたの声は、どんなゴムですか。それをあなたは、どこまで伸ばせていますか。
 それでいまはこうして綺麗事も書けるようになっているけれど、声帯手術を受けることに決めるまでの、夏から秋にかけての数ヶ月はひどいものだった。栗コーダーカルテットに「夏から秋へ渡る橋」という佳曲があるけれど、この年にわたしが渡った橋のアンカーはところどころが罅割れ、腐食し、ケーブルは風にあてられて不吉な音を立てていた。此岸のアンカーから彼岸のアンカーへ。あるいは、彼岸のアンカーから此岸のアンカーへ。橋を渡っていく、渡っている、渡っていた、そのとき書いた文章もひどいものだけど、それはそれでそのときの本当だとも思っているので、【】で囲ってそのままここに載せます。もう、そろそろ、年の暮れが近いですね。それでは。

【感情が破裂して生きていくためのいろいろが一気にわからなくなり■月からしばらく家に引きこもることにした、というより家から出られなくなった。■月末、出勤最終日、■■。何も考えられない。体が動かない。みたいな状態で、とにかく今日が過ぎれば、という時、レジカウンターの上に積まれていた本の一番上に見慣れない本があった。開いてみた。栗原康『サボる哲学』とあった。ドッグイヤーされているページを開いて読んだ。救われそうな予感があった。
 わたしはその本は■■■が置き忘れていたものだと思っていた。■■■(奇しくも同じイニシャルだ)が置き忘れたものだったと知ったのは■月の頭、職場復帰を■■日ほど前に控えたときだった。
 夜眠れなくなった。食欲がなくなった。感情が平たくなった。■月の頭、思うところがあって浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』を最新刊まで読んだ。浅野いにお『漫画家入門』を続けて読んだ。漫画を殺すために漫画を描いていると浅野いにおは言っていた。ネットのインタビューを読んだ。YouTubeチャンネルを開設していたことを知った。浅野いにおの肉声、言葉の選び方、テンション、そのすべてが■■■■(大学時代の友人)と瓜二つだった。浅野いにおの作画配信やゲーム配信のアーカイブ動画をエンドレスで流し続けながら生活した。朝も夜も眠るときも。そうしないと眠れなかった。■■■■がうちにやってきて(あるいは、わたしが■■■■の家に行って)、■■■■は誰か友達とボソボソ喋りながらひたすらゲームをしている。その横でうとうとしていく。そういう錯覚がないと眠れなかった。浅野いにおの、漫画ではなく友人にひどく似たその肉声に助けられる日が来るとは思わなかった。
 知らないうちに蓄積していて、知らないうちに耐え続けていた傷の深さに、自分の中の人格というのか嗜好というのかが幼児退行を起こしている気配があった。そのことにも緩く鈍く傷ついていた。アニメ『ハイキュー‼︎』を全話全シーズン観た。『荒川アンダー ザ ブリッジ』を観た。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観た。『血界戦線』を観た。『小林さんちのメイドラゴン』と『小林さんちのメイドラゴンS』を観た。その主題歌を何度もリピートした。■月末は『小林さんちのメイドラゴンS』OP曲「愛のシュプリーム!」以外の曲を聴けない状態だった。「愛のシュプリーム!」があったから自転車に乗れた。■■■に行けた。■■に行けた。
 浅野いにおの配信動画を再生する合間合間に、違う人の動画を観るようになった。スマブラ日本大会や世界大会常連のプロゲーマーの配信動画の切り抜きを浴びるように観た。■■■■のロボットを、■■■■■のピクミン&オリマーを、■■■のクッパを、■■■■のポケモントレーナーを、■■■■■のダックハントを、■■■■のむらびとを観た。眠るときは浅野いにお、起きているときはスマブラ、たまにメイドラゴン。楽しいとか面白いとかではなかった。原稿を見ると吐き気がくるから見ないようにしていた。人と会ったら気持ち悪くなりそうで、配信のゲスト出演を中止させてもらった。申し訳なさがつのる。■■月に予定されているライブで歌えるかもわからないなと思っていたが、ライブは無観客配信になり、規模も縮小され、わたしの出演はなくなった。ホッとする気持ちのほうが大きかった。
 そういう日々をしばらく過ごしてのち、栗原康『サボる哲学』を買って読んだ。なんだか久しぶりに文章を読んで感情が動いたような気配があった。■■■■『■■■■■■■■■■■』をすこしずつ読み始めた。何度も「■■■■■■」と出てきた。それから何を思ってか、随分前に買っていてそのままだった乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を読み始めた。「序」でラッダイトとトマス・ピンチョンについての文章があり、ラッダイトは『サボる哲学』でも出てきた。毎日すこしずつ、そのまま読み進めていくうちに、いくと、書きたい、と思っていた。思った。読めてよかった。と、素朴に思った。書きたいと思って、そんな元気はまだなかった。浅野いにおの配信動画がないと眠れなかった。
 そのままYouTube依存症のようになって、家にいる間中はずっとYouTubeで何かしらを流している、という日々をいま(これを書いているのは■■■■年■■月■■日深夜です)も続けている。■月の頭ごろからはVtuber(特にバ美肉系)ばかりを観るようになって、浅野いにおの助けを借りずとも眠れるようにはなったが眠るのは下手になった。食欲もよくわからないまま。■月の頭に再び原稿と向き合い始めた。そんな感じで、浅野いにおの肉声と、「小林さんちのメイドラゴン」シリーズと、栗原康『サボる哲学』と、乗代雄介の小説と、バ美肉Vtuberの何人かに助けられて、ここに居る。数日前、マインクラフトのゲーム配信で浅野いにおが海外のファンから英語のチャットメッセージをもらっており、そのメッセージに対して浅野いにおは「自分以外は全員敵だよ」とはっきり日本語で言っていた。そうだな、と思った。と同時に、「自分以外は」とはっきり言える人はすごいな、とも思った。自分を味方にできた人のゆるぎなさ。
 久我山に良さそうな心療内科を見つけた。ここに行こう、という場所を決めておくだけで、ささやかながら気持ちに「しんどい」以外の容量ができるのだなと思った。中学高校と一緒だった友人に電話で何回か相談をした。とにかく動けるうちに行ったほうがいいと言われた。手遅れになると。「おやすみ」だけでいいから人になにかを言いたくて友達に何度か電話をした。ウィーンに住む友達と通話でアジア人差別についてとトランス差別についての相似点と相違点を挙げていった。舞台美術の職に就いた友人と電話で人権について話した。小田急で人が刺された。メンタリストは「ホームレスはいらない」と言った。「あなたはあなただよ」「あなたはトランスジェンダーじゃなくてあなたなんだよ」「あなたのことをトランスジェンダーだって思ったことはないし、わたしはあなたのことはあなただなって思ってるよ」わたしはトランスジェンダーで、それは思い込みでも考えすぎでも自意識過剰でもなく事実だ。誰も、なにも悪くない。本当にそう思う。ときもある。接客をする。お会計をする。去りながら隣を歩く恋人の耳元で「びっくりした。女の人かと思った」と穏やかに笑って言う人がいる。それに応じて穏やかに笑い返す恋人がいる。その人たちはなにも悪くないし、わたしはその人たちになにか悪感情を抱くわけでもない。「女の人かと思った」という言葉には、揶揄もおふざけも馬鹿にするようなニュアンスも含まれておらず、ただただ「女だと思った(けど違ったみたい。びっくりした)」という、恋人同士の親密な報告と会話をわたしが見たり聞いたり悟ったりしてしまった事実だけがある。その二人組の会話に善意も悪意もないし、わたしへの攻撃の意味合いもない。ただただ、わたしが「女だと思った(けど違った。びっくり)」見た目と声をしていて、トランスジェンダーだった、という、善も悪もなにもない、ただただそれだけのただの事実。トランスジェンダーという存在の事実だけが悪い。本当にそう思う。うじうじしてるんじゃねえよ。可愛そうぶってるんじゃねえよ。逃げんじゃねえよ。と言う馬鹿。本当にそう思う、と惰性で思う本当の馬鹿。
「ひとり」でいる。「ひとり」である。隣に誰もいないという状態を長らく肯定することができずにいる。話し合いをする。話し合いになるとき、その場にいる人間のうち自分以外全員にパートナーがいるとき、どうしたらいいかわからなくなる。劣っていると明確に思う。価値がないと思う。トランスジェンダーという事実が「ひとり」の無価値を強固にする。「トランスジェンダーでも働ける場所はあなたが思っているよりたくさんあるから大丈夫」「トランスジェンダーっていうある一部分だけを根拠に自分で自分の選択肢を狭めないほうがいいよ」「あなたならきっとどこへ行っても大丈夫」。当事者が別の当事者に言えないことを平然と言う人。知らないから言える絵空事。どうやって働いてきたのかわからない。どうやって元気にしていたのかわからない。どうやって生きていくのかわからない。じゃあ死ね。おう。お前は人から死ねって言われたらはいと言って死ぬのか。わからない。死ね。わからない。殺す。何を殺すために何をするのか、しているのか、がわかれば、「漫画を殺すために漫画を描いている」のと同じような強さで「自分以外は全員敵だよ」と自分の口から強くはっきりと日本語で言えるだろうか。
 頭はずっと重い。真っ直ぐ歩けない。眠れない。とにかくお金がないけれど、そして救いもないけれど、「自分以外は全員敵だよ」という友人にひどく似た肉声を聴いて「そうだな」と思ったときのすべてへの諦めとその諦めを抱いたときの微かな感情だけ、それだけをいまはすこしだけ信じて持って生活しているつもりでいる。原稿の書き直し以外で、いちからこの長さの文章を書いたのは久しぶりです。ここまで読んでくださった方がもしいたとして、こんにちは。元気ですか。元気でも元気じゃなくても、明るくても暗くても、傲慢でも卑屈でも、なんでもいいので、そこに「居て」ください。わたしもいまはここに「居る」ことしかできません。なんとかやっていきましょう。全員敵と全員味方は、案外同じ意味かもしれません。】

……

 珈琲を淹れる。豆を挽いて、フィルターに落として、お湯を垂らして、蒸らして、注ぐ。濾していく。抽出していく。最初に、濃い、原液のような抽出液が出てきて、それを、そのあと出てくる出涸らしのような抽出液で薄めていく。薄め方によって、味わいが変わる。名前が変わる。濃淡が決まる。
 奇跡の薄め方によって、物語は表情を変える。どれだけ薄めても、奇跡の気配は消えない。なぜなら。わたしが書いているから。あなたが読んでいるから。わたしが生まれたから。あなたが生まれたから。この世界が、このように在るから。