0094 すばらしい日々

すばらしい日々

 たらみのみかんゼリーが食べたかったのだ。ただ、それだけなのだ。
「どしたのそれ」
「ん〜いや、あそこの高架下でさ、ダンボールの中に入っててさ、震えてたから」
「から?」
「ん?」
「震えてたから?」
「や〜かわいそうじゃん」
 自分の眉間に皺が寄っているのがわかる。鼻から息が漏れる。後先考えずになにかを拾ったり誰かを助けたり。それで面倒なことになっても構わない。というか面倒をわたしや周囲の誰かが肩代わりしたり一緒に請け負ったりしていることに気がつかない。あなたにはそういうところがある。
 ◎◎◎は、あなたの手のひらの上でのんきにウネウネ動き回っている。
「で、どうすんのこの子」
「名前はもう決めてあるんだ〜」
「は?」
「ハロー。いい名前だよね。ね、ハロー」
 あなたはビニール袋からミルクポーションくらいのサイズのゼリーを取り出して、蓋を剥がしてハローにあたえた。帰ってくる途中で、ミニストップあたりで買ったんだろう。もうすっかり飼う気でいるようだ。
 ハローは嬉しそうにキイキイ鳴いている。むかつくけどちょっとかわいい。
「俺思うんだけど、あいさつってしてもされても気持ちいいじゃん? それだけでこう、気分が上向きになるっていうかさ。ちょっといい日いい瞬間になるみたいなところ、あるじゃないっすか。だから〜、こいつの名前はハローなのです。ね〜ほら、ハローって言うだけで、なんかちょっと、こう、よくない? わからんけども」
 もうすっかりあなたに懐いた様子のハローは、手のひらから腕、腕から肩、肩から背中、背中から脇腹と、あなたの身体の上を這い回っていた。「やめろよ〜」「あ、そこ、だめ……っくっは」とくすぐったそうに笑うあなた。もやもや〜っ。
「それでさ〜、ちゃんと買ってきた?」
「買ってきた?」
「ゼリー」
「ゼリー? うん、これ」
「わたしの」
「あ」
「ミニストップ。たらみ。ゼリー。ねえ。みかんの。ねえ」
「あ〜」
「風邪薬」
「あん」
「冷えピタ!」
「……」
 梅雨入りするかしないかの六月初め、私は季節外れの風邪を引いた。私もあなたも風邪なんて滅多に引かないから、家にはそういった類の備えがなにもなかった(絆創膏もないことに気づいてふたりでちょっと笑った)。だから私は、夜勤明けのあなたにささやかなおつかいを頼んだのだ。風邪薬と冷えピタと、あとたらみ。とくべつ好きってわけではないしむしろどっちかっていうと嫌いなんだけど(蓋を開けるときにたいてい汁がこぼれるし、甘ったるくて)、肉体的にも精神的にも弱っているとき、無性に食べたくなるのがたらみのみかんゼリーなのだ。薬みたいなもので、というかもう薬で、とりあえず弱っているときに体内に入れ続けているとなんだか元気になったような気がしてくるのだった。「入れ続けるなら薬っていうより点滴だよね」とあなたは言うのだが。
「は〜〜ごめんほんとごめん〜! すぐ! す〜ぐ帰ってくるから!」と、ハローを身体からひっぺがし、あなたはいそいそと玄関を出た。
 私は地方誌の編集者で、あなたは夜勤の警備員で、私とあなたは小学校の同級生で。社会人なりたてのころにちょっとしたきっかけでささやかに再会して、それからお互い暇なときに連絡を取るようになり、だらだらと食事をしたりぼやぼやと遊んだりしているうちに、四捨五入、みたいな感じである日を境に付き合い始め、私の引っ越しを機に同棲することになったのだ。
 寂しそうにキュイキュイ鳴くハローを無視し、私はおぼつかない足取りで黒ラベルの空き缶とメビウスを手に、ベランダへ出る。
 火をつける前にメビウスの葉の匂いを嗅いでいると、ベランダの真下、アパートの出入口からあなたが速歩き気味に出ていくのが見えた。せかせかとミニストップの方向に進んでいく。「おお、行け行け」と、私はすこし愉快な気持ちになって、タバコをくわえる。
「……そうだ」
 このタバコを吸い終わるまでにあなたがここに戻ってきたら。些細なあれこれはひとまず置いといて、今日は一日、おとなしく、病人らしくふるまうこととしよう。
 それまでに戻ってこなかったら。
 こなかったら、玄関でベロチューだ。
 そこそこ屈強な私がこんなにしんどくなっているのだから、わたしの体内で跋扈しているウィルスだって、きっと屈強なはずだ。そのウィルスを、思いっきり、あなたへうつしてあげよう。あなたの身体をウィルスに組み伏せてもらって、そうして、一緒に寝込もうじゃないか。
 網戸越しにハローがこっちを見ていた。
「いや、嘘だよ。うそうそ。やんないよ」
 向かい風が吹いてタバコの煙が部屋に入りこむ。それを吸ってハローが大げさに咳き込んでいるのを、目を細くしてざまあみろと笑う。部屋の中で流れているテレビの天気予報が、関東地方の梅雨入りを宣言している。なぜか清々しい気持ちでアナウンサーの音声を聞きながらタバコを吸い続ける。アパートの、道路を挟んだ向かい側、私立の小中学校みたいな外観の老人ホームから、音楽が聴こえてくる。しばらく聴いていて、UNICORNの「すばらしい日々」だとわかる。奥田民生を意識しているのか素でそうなのか、のっぺりした声質のボーカルが、「す〜べ〜て〜を〜捨〜て〜て〜ぼ〜く〜は〜生〜き〜て〜る〜」と歌っているのがかすかに聴こえる。わたしやあなたが高校生のころ再結成したUNICORNの、その復活ライブの違法アップロード動画を当時、ニコニコ動画で観たな、と懐かしくなって、YouTubeで検索してみてもさすがに出てこない。久々にニコニコ動画にアクセスして探してみてもヒットしない。消されちゃったか。そりゃそうか。そんなことをしている間にタバコはちびて吸えなくなっていて、あなたはいつの間にか帰ってきていて、ハローはベッドに上がって眠ろうとしていて、タバコが先だったのか、あなたが先だったのか結局わからないまま、私は部屋に戻って、あなたと数秒ハグをする。