0083 バスタブ

バスタブ

 身体中の倦怠感で眼が開き、肩までかかっていた布状のビニールを半ば反射的に剥ぐと、目の前に、というか四方に弾性のありそうな真っ白い壁があって、夢、夢の中、白い、狭い、……。なにも考えていないに等しいふやけた思考と意識をしばらく漂わせてから、そうか、ここはシャワールームか、と思い至る。ここはシャワールームで、私はビニールプールみたいなポータブルタイプのバスタブの中で眠っていて、そしてここはコモドの家だ。頭が重い。筋肉痛のような全身の怠さは首筋をゆっくりとのぼって頭を鈍く締めつけていて、私は四肢を引きずるようにして三角座りをする。仕事が終わって、事務所の鍵をかけて、歩き出そうと身を翻したところでコモドからメッセージが来て返事を送り合っているうちにコモドが電話をかけてきて、週末だしまったりしよしよいいねいいねみたいな流れになって、でそのまま電車を乗り継いでコモドの住むアパートへ向かってコーヒー飲み飲み仕事の愚痴たらたらで長居してしまって、移動手段が徒歩orウーバーになって、どうしようかな……、と思ったり言ったりしていたらコモドがキッチンから買い置きのカルフビールやら貰い物だというボトルワインやらを出してきて、そのまま、それから。ええと。
「   」
「   」
 じっと頭を巡らせているうちに、シャワールームの外からかすかに声が聴こえてくる。だれか来ているのだろうか。それとも通話かなにかだろうか。人がいるような気配はないから、通話かもしれない。コモドの、やわらかい、アジア人にしてはハスキーな声と、粒の大きい快活な男性の声が聴こえてくる。
 コモドとはカフェやバーで何度も会ってきたし、そのたび昨日みたいにだらだらとお互いのことを話してきたけれど、私はコモドのことをなにひとつ知らないままなのかもしれないな、とふと思った。知らないまま、バスタブでうずくまっている。ふふ、と息が漏れる。いまコモドと話している人は、友達なのかな、パートナーだったりするのかな、それとももっと別のなにか?
 身体を再度、柔らかなバスタブの底面に沈める。守られているような気持ちになりながら、白い壁/バスタブの側面を見つめる。
「…………わは、へーそうなんだ。もういいのね。えっとなに、なにからだっけ、あ、土井です。っへへ土井です。フルネーム?の方がいい?じゃあ土井美郷です。名前そのまんまで呼ばれることってほとんどなくて、親もみーちゃんだし。なんか機嫌悪いときとか怒られるときはみさと呼びだったな。ドイちゃんとか呼ばれることもあるけど、あ、友達にね、あるけど。だいたいはコモドって呼ばれ、ふふ呼ばれてます、ね。ふふふヘンなかんじだなあ!友達が知らん人に紹介するときもコモドって言ってる、言ってた、言ってるから、ほんとだいたいそう。由来、いやあ由来ひどくて、小学、3年忘れもせんわそのとき、クラスにディポっていうやつがいて、いやあだ名なんだよね、なんでディポなのかは忘れちゃったなあ知ってたっけな。アリは覚えているかもね。由来とかね。わからんけど。で、えーっと、で、まあディポ、いて、ディポすげえ意地悪で、…………」
 暗闇に眼が慣れていくような感覚で、徐々にコモドの声がはっきりと聴こえるようになってきたけれど、日本語で話しているらしく、どんなことを話しているのかまではわからない。話し相手の声もわずかに聴こえてきて、耳馴染みのない相槌で言葉少なにコモドの声に応答しているのがわかる。相槌って不思議だ。ほとんど無意識に発する類の言葉、というより鳴き声に近い喉の震えなのに、言語圏によって母音も子音も発音も変わる。
 それからまた、しばらくして、電熱コンロをいじる音が聴こえる。水道管を水の流れる音がして、シンクに置かれたマグカップに流水が当たる。その音でまた目覚める。ずいぶんと寝心地のいいバスタブで、なかなか起き上がれずにいるうちに二度寝してしまっていた。もう通話は終わったようで、コモドが、コモドの一日をはじめようとしているのがわかる。
 バスタブに響いてくる音から私はコモドの生活を思う。ここはひとりだ。私もコモドも、わかりやすくひとりとひとりだ。それでもこうしてだれかの声が、音が聴こえてくる限り、私はひとりでも大丈夫なのだ。たぶん。おそらくは。きっと。
 朝にしては夜っぽい感傷に流されそうになりながら、そうだったそうだった、と思いながら、私は身体を起こす。眠い。日が沈むまでバスタブで寝ていてもいいような気がしてくる。そしたらコモド、困るだろうな。あくびを噛み殺しながら、バスタブをまたいでシャワールームを出る。私は、私の今日をはじめる。