0077 ロッテリア

ロッテリア

 それにしても悪いことというのは大抵の場合立て続けに起こるもので、「受かっていたらだいたい一週間後に電話で連絡します」というバイトの合否連絡が一週間後の今日になっても来ず、まとわりついた虚脱感を引き剥がすために夜の出町柳を自転車で走っていたら、信号無視、無灯火、イヤホン装着で警察官に捕まり、罰金を払おうとしたところで財布を落としたことに気がつき、財布を探している最中にiPhoneをアスファルトに落としてぴかぴかだった画面がカニカマボコの断面みたいに細かくひび割れ、いっそ路上で踊り狂いたい気持ちをぐっとこらえて佐倉が住処に戻ると空が外でiPhoneを見つめながら煙草を吸っていた。だから佐倉も自転車を停めてから空のそばまで行って煙草に火をつけた。
「アキさん」
「おつかれ」
「なに見てるんですか」
「どしたんなんか、なんかむっちゃすごい顔してるけど」
「いや……いやもう、いや……。財布落として、口頭注意でよくなって……携帯が、もう。ああ、いや」
「なに」
「いや……なんでもないや。なんでもないですちょっと。混乱している……疲れているのかもしれないです」
「そうか」
「なに見てるんですか」
「YouTube」
「の?」
「なんかね、これ」
 空が佐倉のほうへわずかに画面を傾ける。動画が再生されていて、横長の携帯ゲーム機をだれかが操作している。暗い部屋のなかで撮影しているのだろう。携帯ゲーム機のディスプレイの光で両手がかすかに映る以外はなにも見えない。iPhone画面の中の動画の中の携帯ゲーム機の画面、という入れ子によって見えづらくなっているが、ゲーム機の画面上ではボールペンの蓋を正確にはめていくライン作業が延々と続いている。佐倉はこのゲームに見覚えがある。
「バイトヘル2000じゃないすか。なつかし」
「お、イタルくん知ってるねえ」
「もう、っちゃくちゃやってましたね中学のとき」
「イタルくんそのころってもう中学生?」
「いや、ぎりぎり小学生でしたね。小5?6?」
「小学生でPSPってなんか、わかんないけど、はやいね」
「兄が持ってたんです。借りて」
 なるほどね〜、と空が言いながら動画を全画面表示から縦位置に切り替えて、チャンネル名をタップした。【総勢一人の百鬼夜行】。
「総勢?」
「いやあなんかね、総勢さんっていうYouTuberがいて。で、総勢さんは矛盾歯磨きルーティンっていうのをずっとやってて」
「むじゅん、歯磨き」
「そう。ほこたての矛盾ね。まあ矛盾歯磨きについては省くけど、イタルくんはそんなすきじゃないかも……。あ、で、そうそう総勢さん、という人なのだけどねこの人は。その総勢さんが、百機夜行っていうシリーズ名でゲーム実況をはじめたからさあ、なんとなくふ〜んって、見たの。そしたらなんか止まんなくなっちゃって」
 空いわく、総勢さんなる人物の実況動画はゲーム実況の体をなしていない、というか、明らかにゲームそのものを見せるつもりがない。キャプチャされたゲーム画面の映像に実況主の音声が貼り付けられ、ときおりテロップが流れたりもするようなありがちな画ではなく、真っ暗闇の部屋の中で、うつ伏せの状態でベッドに入り、PSP(それも決まってバイトヘル2000やルミナスやもじぴったんのような、淡々と続いていく作業ゲームやパズルゲーム)を操作する、その模様が、総勢さんの視界そのまま、みたいな画でひたすら続いていく。
「矛盾歯磨きのときの、っていっても知らないからわからないだろうけど、あの静かにキマりきったテンションから、キマり、だけを抜いたような感じが、……いや、抜けてはいないな、なんて言ったらいいんだろうな。まあなんか、ようわからんけど心地よくて観てしまうんだよね」
 空の予想に反して佐倉はその後、百機夜行シリーズや矛盾歯磨きルーティンをはじめとする総勢さんのYouTuberとしての振る舞いに興味を抱いていくことになる。【総勢一人の百鬼夜行】チャンネルの概要欄にさりげなく貼られていたURLをタップ/クリックすると、総勢さんが中学1年生のころから書き続けている同名のブログにアクセスできるのだが、総勢さんの本領はむしろこのブログにおいて発揮されているように佐倉には見えた。1990年代後半から2000年代にかけて、テキストサイトやニュースサイトをはじめとする個人ホームページが徐々に下火になり、ブログの台頭、mixiの飽和、Twitterの誕生などを経てムードやモードは移り変わり、3.11と前後してSNSのユーザーは爆発的に増え、という、大きな時代の中のちいさな流れに寄り添っていたのか飲まれていたのか、ブログで頻繁に記事を投稿していたころの総勢さん自身の年齢がそうさせていたのか、語彙や文体、言及する事柄によって想起される「総勢さん」という人格もその時期その時期で目まぐるしく変化していた。そのおぼつかない歩み。歩みと呼んでいいのか、歩んでいる自覚が本人にあるのかもわからない濁流のような熱意と葛藤と執着と暴走の、自分の轍を自分で踏む一人舞台の演目として矛盾歯磨きという映像コンテンツが始まっていく。その様に、佐倉は自身の制作態度を重ねたり照らし合わせたりして総勢さんを追っていくことになる。YouTube版【総勢一人の百鬼夜行】において、総勢さんの芯みたいなものは百機夜行シリーズで発露されていて、矛盾歯磨きルーティンはそこに「キマり」をミックスさせた結果なのだ、きっと。だがしかし総勢さんがブログ版【総勢一人の百鬼夜行】の記事投稿で培ってきたものは遅効性のおかしみと刹那の哀愁であるはずで、総勢さんはYouTubeという舞台においてそれらがそのまま機能するとは考えていなかったのではないか。ゆえの即効。ゆえの矛盾歯磨きだったのではないか。そしてそういった推測を、多くの古参フォロワーだけではない、佐倉のような新規の視聴者に対しても許してしまうツメの甘さもまた、総勢さんの奇妙になまなましい魅力なのだった。総勢さんに関するそうした想像や推察を佐倉が重ねていくのは、もうすこし先の話になる。立て続けに煙草に火をつける空より先に吸い終えた佐倉は「空珈琲スペースコーヒー 〜飛び出せ宇宙のカフェイン〜」と書かれたA型看板を空に代わって店内にしまい、そのまま奥の階段を上がって寝床に潜り、画面がひび割れて間もないiPhoneでYouTubeを起動させ、「総勢」と検索して百機夜行シリーズのひとつをてきとうに再生し、総勢さんの「櫛をね。……クシ。買ったんすわ〜ちょっといいやつ。そうそう〜。そういえば。……いやなんか、いままで櫛ってべつになんにも、100均でとか、コンビニでとか、てきとうになんか買って、買った、そのそれを、もういつなのかな、わかんないくらい前に買ったやつを、ただ使っていたしべつにそれでよかったっていうか、もうなんにもなかったんですけど、考えるとか。でこのまえ、……ほーんとに突然、なんですけど。なんか、櫛、使いながら髪、整えるじゃないですかそれで、整えていて朝、何度もこう、何度も、櫛をこう、やるじゃないですか。それでこう、やっててー。……。こんなに髪の毛のたばたば、束?というか一本一本みたいな、すごいじゃないですか髪の毛って、本数。ってものに何度も何度も擦るみたいに、触れるものがね、なんかね、プラスチックとかゴムとかでほーんとにいいのかってね、なーんかねえ……、なんか思ったんすよね。おれ、思っちゃって。それでそうそう……。なんかすごいたっかいの、いやそんな大した額ではないけど櫛にしては、おれの中の櫛感としてはたかいの、なんかいいの、買ってみたんですよね。かっけー!、ってなって。んふ。へへへ。あっやべミスった」という声を聴き流しながら、眠りに落ちていった。
「エッチスケッチワンタッチ、ってなんだったんだろうなあ」
 翌日、佐倉は午前中に空珈琲を出て、百機夜行シリーズを再生させたままiPhoneをリュックに入れて、音声だけをワイヤレスイヤホンで聴くかたちにして自転車に乗り、出町柳駅前のロッテリアへ向かった。プレミアムブレンドとバケツポテト、といういつものカンヅメセットをオーダーして、喫煙席のすぐそばの禁煙席に座る。トレイをテーブルに置いてリュックを降ろし、中からジャネット・ウィンターソン『恋をする躰』、マヌエル・プイグ『このページを読むものに永遠の呪いあれ』を取り出し、ポメラを取り出し、黄色いロールペンケースと手帳を取り出しているあいだにも総勢さんのエッチスケッチワンタッチの懐古的な一人語りは弛緩しながらも続き、それを無心で聴いていると総勢さんの声が突然フェードアウトして着信音が鳴った。ワイヤレスイヤホンのボタンを押して、佐倉は三本からの電話に出る。
 佐倉と三本は同じ大学、同じ学科の同回生で、お互い学生時代を文章作品の制作に費やしてきた。いまも費やしている。佐倉は京都で、三本は東京で。佐倉は新人賞に出すための中編小説を、三本はカーセックスというシチュエーションに焦点を当てたごく短い文章作品を。佐倉と三本は学生のころからお互いの作品を見せ合ったり、出町柳駅前のロッテリアに籠もってそれぞれ作品を書いたりしてきた。喫煙席に籠もるのは鼻が耐えられない。われわれは誇り高き喫煙者なのだ。とふたりは冗談半分本気半分で言い合っていて、煙草を吸うときだけ喫煙席に入り、雑談をするのもふたりが喫煙席で煙草を吸っている間だけ、という暗黙のルールがいつしかできあがっていた。そのころのルールを、佐倉はいまもひとりで守り続けている。
 佐倉と三本が大学で在籍していたのは文芸表現学科という場所だったから、小説を書く、あるいは書きたいと思っている人は佐倉や三本のほかにもたくさんいたし、作品を見せ合ったり、語り合ったりする同回生はほかにもいた。けれどみんな、書かなくなってしまう。誰かの作品について語り合わなくなってしまう。東京で、地元で、どこかの地方で就職してしまって、就職するぶんにはいいのだけど、そのまま書かなくなってしまう。作品をつくり、語り合う時間を、みんなは過去にしてしまう。学生時代の輝かしい思い出に変えてしまう。風景描写に独特のこだわりがあったあいつ。粘り強い地の文でゆるやかにおかしみを生み出していくのがうまかったあいつ。セリフに執着しすぎてシチュエーションと会話の時間経過がいびつだったがそれが不思議と魅力的だったあいつ。秀逸なタイトルでいつも周囲を沸かせたあいつ。昭和ミステリー風の中年男女の痴情のもつればかり描いてきたのが卒業間際に一転して内省的な私小説を書いてきて数人の目頭を熱くさせたあいつ。話が壮大過ぎていつもプロローグで終わってしまうがいつも誰よりも熱心に自作を語っていたあいつ。それが手前勝手な感情であることは承知の上で、佐倉はそんなみんなに対して怒り、諦め、落胆していた。みんなに対するそういった感情を、佐倉は制作へのモチベーションに変えていた。変えることにしていた。ひとり、またひとりと、同期たちがそれぞれの作品の作者であることを忘れてしまったかのようにリクルートスーツに袖を通していくなかで、最後まで作者であることを忘れなかったのが佐倉と三本だった。賞レース志向で長い作品を集中してつくりあげていく佐倉と、賞とは関係なく短い作品をマイペースにつくり続ける三本は相性がよかった。それぞれの意見や態度、主張を、噛み合わないまま、噛み合わせないまま、聞き合い、話し合う仲だった。佐倉は出町柳、三本は笹塚。それぞれの場所のそれぞれのロッテリアで、小説を書き、電話をかける。
 プイグの手法。ウィンターソンの手法。佐倉はそればかり気になっている。
 インタビュアーの手法。清掃員の手法。三本はそればかり気になっている。
 通話中、ふたりはほとんどしゃべらない。ただお互い、文章を書く。打つ。店内のBGMや環境音にまぎれて、ときおり、向こうのタイピング音がかすかに聴こえる。ため息、ひとりごと、咀嚼音。ロッテリアという空間でつながるふたりの文章が、連なり、消され、書かれ、膨らみ、また消され、また書かれ、また連なり、また膨らみ、