ナビゲーター(袋小路でやぶから棒に)
あの、すみません。まずは、あの、はい。お、お、落ち着いて。あ、すみますみすみすみません。とりあえずは、まずは、なにをおいても、こういう時は、ええ、絶対的、可及的、速やかに、落ち着くことが大前提かつ大事ですから。はい。とにかくまずは、深く、ふかく、ふか……げええっほんえふんげふんごめんなさいんんんっ。はい。深呼吸から……はあ、深呼吸から始めましょう。それから、すべてはそれからです。息をすう〜、はあ。すう〜、はあ、して。……そう、そーうですはいはい。はい。はい。よくできました〜。あっすみませんすみません。怒らないでください。馬鹿にしているわけではないんです。けっして、断じて、誓って、そんな失礼なこと、あなたにするわけないじゃありませんか。そう思いません? 思いますよね? よかったよかった。それでですね、まずはそのー。あっ、挨拶がまだでしたね。えと、おはようございます。あ違うか違いますね。はじましてですねこういうときは。人と人がはじめて、こう、雁首を揃えると言いますか。初対面。そう、初対面、ですよね? ラッシュ時の埼京線の車内ですとか、代々木八幡の踏切待ちの間ですとか、もしかしたらもしかすると、偶然ばったり出会っていたのかもしれませんけど。あ、こういう場合――つまり、ちゃんとした初対面の挨拶を交わすより以前に、あなたを見かけていた場合――も、ばったり、とか、偶然、って、使うんですかね? そこんところ、ちょっとよくわかんないんですけども。でも、そうですね、とりあえずは、はじめましてにしておきましょうか。しておいてください。どうか。どうか……。
えと、それでですね。あなたの頭には今、たくさんのハテナが浮かんでは消え浮かんでは消え――あ、消えてはいないですか。それは失礼しました――、していると思うんですよ。そりゃ思いますよ。思うことでしょう。誰だってこんな、非常時にはそういう思考回路が働くものです。誰だこいつら、と。なんでこんなに慇懃なんだ、と。そもそもなんで部屋にいるんだ、と。こんな早朝に、と。まだアラームが鳴る二時間も前なのに、と。得体の知れない輩に安眠を妨げられたぞ、と。今日は祝日なのに、と。小鳥の囀りしか聴こえないような時間帯じゃないか、と。チュンチュク鳴いてるあの小鳥はスズメだろうか、と。そうですおそらくスズメです。それにしても最近、スズメを以前ほど見かけなくなりましたよね。なんでも年々スズメの数が減っているらしいですよ。ええ。ええ。本当ですとも。こんな所で嘘なんてついてなんになるんですか。こんな、高層ビルの裏手の、袋小路の、ゴミ臭い、陽の当たらない場所で。……そうですとも、まだ寝ぼけてますね。大丈夫ですか? もう一度深呼吸しますか? コンコンコン、おーるーすーでーすーかー? いえいえ冗談ですってすみませんってばははははは。ああ失礼。とにかく、今一度、辺りを見回してください。たっぷり、首を左右上下に、三往復くらい、動かしてみてください。首まわりの運動には眠気をふきとばす効果もあります。そうしましたら、けっして慌てずに、まずはこの文章に目線を戻しましょう。
これでようやくお分かりになりましたでしょうか。ああ、よかった。ホッとしました。とりあえず、ホッ、とさせてください。この仕事も、いろいろと気苦労が絶えないのです。ほら、その、あなたのように、イレギュラーな状況で浮空期に突入した場合、パニックを起こすこともめずらしくないのです。ええ、ええ、ここだけの話。そうなんですよ。
ついに俺も。そう思ってますか? ついにきたか。そう思ってますか? なんでまたこんな時期に……。そう思ってますか? まあ、災難ですね、としか言いようがないですね。五年間、学生のころから付き合っている人と別れて、しかもその人には二年前から別の恋人がいて、つまりあなたは二年間二股をかけられていて、しかも付き合っている人としてはあなたよりもうひとりの恋人のほうが本命で要するにあなたは浮気されていたというより付き合っている人にとってはあなたが浮気相手のようなもので、お荷物で、ただのヒモ野郎で、ノータリンで、……みたいなことを昨日の夜付き合っている人とそのもうひとりの恋人に一方的にまくし立てられて、あなたは驚きすぎてなにも言い返せなくて、むしろ驚きを通り越してなにも感じなくて、なにも感じないのだから当然言うべき言葉も言いたい言葉もなにも浮かばずただあなたは「ふうん」という心持ちで冷蔵庫から缶チューハイ――夏みかん味の五〇〇ml――を取り出してグビグビ飲んで、飲んでいるうちにやっぱりなんだかムシャクシャするなあとぼんやり思い始めて、特に暴れもせず泣きわめきもせずに、無表情のまま付き合っている人のもうひとりの恋人の頭頂部に缶チューハイの残りをダバダバと注いで、付き合っている人もそのもうひとりの恋人もなぜだかまったく動じずに「なにこいつ」といった眼をあなたに向けるだけで、缶チューハイを注ぎきったあなたは「ほいじゃ、俺はこれで」とでも言い出しかねないくらい気さくな身のこなしで玄関の一〇〇円ショップで買ったオレンジ色のサンダルを履いて、行きつけの、高架下のおでんの屋台にでも行こうかなと足を動かし始めたはいいものの、途中でそっか今日日曜日だわおでん屋やってねーわってことに気づいてしばらく迷いながら歩いた末に駅前のカラオケ館に足が進んで、人生初のひとりカラオケというものでもしてみようかという気持ちにだんだんなってきて、「一名で」なんて少しぶっきらぼうに、顔を横にぷいっと背けそうなくらいそれはそれはぶっきらぼうな「一名で」を店員に向かって投げ捨てて、二〇一と印字された札を笑顔の店員に渡されてあなたは仏頂面のまま二〇一号室までペチペチ――サンダル履いてますからね――歩いて、着いて、硬いんだか柔らかいんだかはっきりしないソファーに体を沈めたあとに「別に俺、歌いたい曲ねえや」ってことに気づいてその言葉を実際に口に出して、何回か舌打ちしてからメニュー表を開いてやや迷った末にあなたは生ビールを頼んで、パリパリと餃子の羽のように――ちなみにわたしは餃子の王将と大阪王将で言うと大阪王将派です――乾いた笑顔で店員がそれを運んできて、あなたは痙攣のような会釈だけをして店員が去るのを待って、一息で飲んで、頼んで、飲んで、頼んで……、午前三時――つまり日付的には今日、ですね――の退出コールギリギリまでそれを繰り返して、千鳥足で、階段で二、三度転けそうになりながら、爪先立ちみたいな覚束なさで一階のレジカウンターまで歩いて、店員に番号札を渡してから「そういや俺財布持ってきてねーじゃん」ってことに気がついて、「やべ」と口から出かけて、千鳥足のままマリオネットみたいなぎこちない動きで――鏡の〜中のマリオ〜ネッツ! と高らかに歌う声が、隣の部屋から漏れ聴こえていましたね――右向け右をして、両の手で自らの両頬をピシャンと叩き、そのままダッシュで逃げて――お客様! おい! お客様! という声が遠ざかっていくのを感じながら――この路地裏まで逃げて逃げて逃げて、倒れ込んで、眼を閉じて、そして眼を開けたら見知らぬタキシード姿のおっさんがいて、あなたのプライベートな情報をペラペラと喋られているんですからね。ほんと、災難でした。いや、現在進行系で、残念ですね。ご愁傷さまです。あ、死んでないですね。しかしながらですね、もうちょっと、露悪的なまでにポエティックな言い方をさせていただきますとあなた、あなたのその心はもう死んでいるようなものです。あなたの半分、半身は、ご愁傷さまって感じですね。ほんと。ところでご愁傷さまってあなた、実生活で言われたことあります? 初めて言われたんじゃありませんか?
とりあえず、あなたは今、立ち上がっています。いますよね? まあ、地に足は着いていませんが――いえいえあなたの生き方がというわけではありません、ですからどうか、その握りこぶしを解いてください……そう、そう、ゆっくり、ゆっくりね――、とりあえず、立ち上がってはいます。ね。そうでしょう?
あなたみたいなケースはわりかしめずらしいのです。ですから、ええ、さきほどから再三、口をこれ以上ないほど酸っぱくして申し上げておりますが、どうか、落ち着いて、冷静に、行動なさることが肝要なのです。浮空期の初期段階に不慮の事故等で死亡してしまうケースはままあります。ですから、あなたのこれまでの人生の常識の枠は一旦、外していただいて、〈かもしれない運転〉で、どうか、説明委員会の言葉に耳を傾けていただきたい。いいですね? はい。いい返事です。そうしましたらまずは、説明委員会の名に恥じぬよう、簡単かつ簡潔に、ご説明のほう、させていただきますね。
まずはそう、あなたの足元、ゆっくりと、再度確認してみましょう。はい、そうです。そうですね。浮いています。宙に浮かんでいますね。重力から解き放たれて、歩こうとしても足がスカスカッと空を切って歩けませんね。ええ。そうです。浮空期間中、通常の方法で――つまり、左右の足を交互に、前に動かして全身を前に押し進めるという方法のことですね――歩くことができません。ええ、ええ、仰りたいことはわかります。不便ですね。とーっても不便です。エスカレーターに乗ってもあなたの足の下で足場が動くだけです。エレベーターは……、ははは……、ああ、いえ失敬。すべてを説明してしまっては興醒めというもの。わたくしども説明委員会は、過剰な説明は過剰な愛、を社訓――委員会の場合も社訓って言うのでしょうか――に掲げて日々浮空期当事者の方々へのツボを押さえた適切かつ適度な説明――そう、それはもはやほとんど愛――を心がけております。ああっ、そこそこ、その説明。あーちょうどいい、いやあいいわあ。きもちいい……。というお声をいただくことも、あったりなかったり。というわけで、あなたには、肝心要の部分のみ、芯を食ったような説明をさせていただきます。あなたもこの宇宙の、この地球の、つまり、宇宙船地球号の乗組員である人間なのならば、今、ご自分の体に起こっている現象、そしてその現象の名称、ある程度は理解しているはずです。なにしろ今は朝の七時。人間の脳みそが一番活発に働く時間帯です。もっとも、今から三〇分ほど前までに朝ごはんを食べていればの話ですが。あっ、そういえばタキシードの右ポケットに、あなたとこうしてお会いする前にセブンイレブンで購入したおにぎり――焼きたらこ――が入っています。説明と、あなたの練習がてら、このタキシードの右ポケットから、自力で、おにぎりを取ってみてください。安心してください。取って食おうってんじゃないんですから――それに、取って食おうとしているのはあなたですよ――。さあ、指示通りに、体を動かしてみてください。まずはお尻の穴……肛門付近に力を入れてください。なかなか出てこないイケズな大便をひり出すように――もちろん、本当にひり出してはいけませんよ。そういう人、案外多いんです――。そして右人差し指の爪を甘噛みしてください。それが体を動かす方法です。車に例えると、肛門への力加減が、エンジンペダルの踏み込み具合、右人差し指の甘噛みが、シフトレバーとハンドルの操作です。甘噛みしたまま手首を上下左右に動かすと、その動きに連動して……おお、そうそうそうです! その調子ですよ! そのように、体が上下左右に回転します。そのまま手首を動かして、こちらに体を向けるようにして、はいはいその調子ですよ、そして、その状態で肛門に力を……そーうです! これで前進はわかりましたね。ちなみに後進――バック、ですね――したい場合は、おヘソの辺りに力を込めてください。ごめんなさいさっき甘噛みがシフトレバーとか言っておいて、かえってややこしくなってしまいました……。腹筋を鍛えるような感じで……おおー、いいですね、いいですよ。はい、では、もう一度、前進して、近づいてみましょう。ちなみに力を入れれば入れるほど、進むスピードは速くなります。はい、これであなたとタキシードはほぼゼロ距離になりました。ちょっと、その、気まずい距離感ですね。吐息のかかる距離、と、言いますか。恋人同士にしか許されない距離、と、言いますか。あっ、いえ、別にその気はありませんのでご安心を。では、右ポケットからおにぎりを取ってみてください。はい、よくできました〜! 何度も言うようですが馬鹿にしているわけではありませんよ。なので、どうかその、怒髪天を衝くような肩の上下運動を止めてくれませんか。ちなみにですね、浮空期間中は、自分の体重・身長以下の物体なら、一度触れれば宙に浮かせることができます。ですから、その、おにぎりを口いっぱいに頬張るのを一旦待っていただいて――ええ、ええ、ほんと、すみません。お願いですからそんな怖い顔しないでください――その練習も、一応、やっておきましょう。万が一、ということがありますからね。その力が誰かの命を救う。なんてことが、無いとも限らないのですから。例えばこの、二五階建てのビルで火災が発生して、逃げ遅れた人が屋上や外に面した非常階段に追いやられていたとしたら、あなたはそこら辺にある――ああ、あそこにちょうどいいベニヤ板がありますね――ベニヤ板に触れて、逃げ遅れた人のいる高さまで浮かせて、エレベーターの要領でオフィスワーカーの方々を救い出すことができます。素晴らしいじゃありませんか。浮空期の特権です。自分の体重・身長以下、というのが宙に浮かべることのできる物体の条件ですが、一旦浮かせたあとに重量や体積が増えても数分間は浮かせたまま操作可能、という、バグのような仕様になっておりますので、ええ。実際、この仕様を悪用した犯罪などもあったりするのです。ですが物体浮空は前立腺がんの遠因とも言われているので、くれぐれも濫用は厳禁ですよ。くれぐれも……。ああ、なんでしたっけ。そうだそうだ。オフィスワーカーを火災から救ったあなたは多くの人から感謝と称賛を受けます。ありがとう。ありがとう。君がたまたまこんな路地裏で、酔いつぶれていてくれたおかげで助かったよ。助かりました。握手。握手。さらに固い握手。そして感謝状の授与。嗅ぎつけたマスコミがあなたをネタに記事を書く。あなたは一躍有名人。街中でサインなんか求められたりして。ああ、はい。そうです。ええっ、サインですか。いやいやそんな。サインするほどの人間じゃあ……、あ、物体浮空は緊急時以外は私物だけって決めてるんで……。ああ、そうですか……? じゃあ、まあ、はい。えっと、サイン、ここに? マッキーとかって持ってたりします? はい。はい。サラサラサラ、っと。あ、ちょっと、カメラはちょっと。恥ずかしいっていうかなんていうか。いやはは、まいったなこりゃ。そしていそいそと人混みをかき分けて目的の場所へと向かうあなた。目的の場所――川沿いに最近オープンした小洒落たヴィーガンレストラン――には、ビル火災の中、果敢にも人々を救ったあなたについての記事を読んだ元恋人。再会を喜ぶ二人。微笑みを交わす二人。まずはオレンジワインで乾杯といこうじゃないか。注文をしようと手を上げかけたあなたを元恋人は優しく止める。ワインはちょっと。だって、私のお腹には、もう……。あなたの耳には聴こえないはずの、命の、微かだけれど確かな鼓動が。そう、あなたと元恋人――現、伴侶――の。……なんてことにもなるかもしれないのです。あ痛い。いたた。ごめんなさいごめんなさい。まだ一応、正式には、面と向かって、別れを告げられたわけではなかったですね。元恋人ではありませんでしたすみません。すみませんってば。
えと、それで、なんでしたっけ。ああ、説明がまだ途中でしたね。触れたものを物体浮空させたい場合は、左人差し指の爪を甘噛みします。はい。そうです。甘噛みした瞬間から、物体は浮き上がります。基本的な動作は先程の、体の操作と同じです。肛門に力を入れると前へ、おヘソに力を入れると後ろへ進みます。上へ上へと浮かせたい場合は、甘噛みしたまま腕を上げてください。上げている間、物体は上昇し続けます。降下させたい場合は甘噛みをやめるか、腕を下げてください。その他、細かい動きはすべて、甘噛みをしている間、左腕の動きと連動します。簡単でしょう? 最初のうちは微調整が難しいでしょうが、すぐに慣れるはずです。あなた、なかなか筋がいい。いや、本当ですよ。体の移動すらままならない人も、最近は多いのです。……ああ、そうそう言い忘れていました。複数の物体を同時に操作することはできません。気をつけてください。くれぐれも。
そうそう、これは最初に説明しておくべきでしたが――いやほんと、説明委員会失格ですね――。男性の生理と言われるくらいですから、女性同様、浮空期前後、浮空期間中で心身に様々な変化が起こります。顕著に現れるのは性欲の減退ですね。浮空期間中、睾丸の機能は著しく低下します。常に射精直後のような状態になる、と言ったら、わかりやすいでしょうか。症状の重い方ですと、浮空期間中は性愛対象の人間――ヘテロセクシャルの方ですと女性、ゲイセクシャルの場合ですと男性、ですね。簡単に言うと、ですが――が視界に入るだけで苦痛を感じる場合もあるそうです。とにかく、どんなにお盛んな方でも、浮空期間中は生殖行為が困難になります。
先程、常に射精直後のような状態になる、と説明しましたが、浮空期予定日が近づいてくるにつれて、段々とそういった心身状態になっていきます。あなたは昨日、元――失礼、――恋人とそのもうひとりの恋人に散々なことを言われたにも拘らず、ある程度は平静を保てていました。それは浮空期直前特有の症状だったのかもしれませんね。そして、安定した心身状態に移行してから大体三日後、夢精を皮切りに浮空期が始まります。……ええ。ええ。そうです。あ、気づいていませんでした? あなた、夢精したんですよ。この、二五階建ての高層ビルの裏手の、ゴミ臭い、陽の当たらない袋小路で。あ、ちょっと、ごめんなさい、ごめんなさいってば。
ちなみに浮空期は、月一回のペースでやってきて、およそ一週間で終わります。終わる時は夢精も何も起こりません。朝目覚めたとき、体が布団に、ベッドに、沈み込んでいれば、浮空期は終了です。性欲も、心身状態も、いつものあなたに戻ります。もう、ビンビンの、グングンです。その、あなたの、スクランブルスクエアに負けじとそそり勃つイチモツを、存分に振り回していただきたい! まあでも、今はとりあえず、精子が乾ききってカピカピにならないうちに、ティッシュ――あ、ポケットティッシュ、持っていたんでさしあげます――で綺麗に拭き取ってください。大丈夫です。後ろを向いておきますから。どうかお気になさらずに、あなたのペースで、慌てることなく、ペニスにべっとりとこびりついた精子と、そのぬめり気のあるパンツを処理していただいて。ええ。ここにはあなた以外誰もいない、誰も来ない。袋小路なのですから。栗の花の匂いが染み付いた香ばしいパンツの一つや二つ、アスファルトの肥やしにしてしまっても何ら問題ありません。ええ、ええ。本当ですとも。さあ、一刻も早く――されどあなたのペースは乱さずに――その青いチェックの、ゴムが伸びきっていて、歩くとジーンズの中で少しずつずり落ちてしまう、五年前に――そう、あなたが恋人と付き合い始めたころ、ユニクロで――買ったトランクスを、どうぞ、地面に叩きつけてください。そして、彼がトランクスを力の限り地面に叩きつけたのとほとんど同時に、今までピーチクパーチクしゃべり続けていたタキシード姿の男の隣にただただ突っ立っていただけのもう一人の男――もう一人の男は、ジーパン、白地に控えめな級数の楷書体で「説命」とプリントされた半袖シャツ、というラフな格好だった――が、やぶから棒に、口を開いた。川城さん、も、いっすかね僕しゃべっても。いっすかね。やっぱりあなたとか言われたってピンと来ないっすよ正直言って。えっと、矢野さんでしたっけ? わかんないっすよね。いやいや、誰だよ。みたいな。そう思いません? ……あ、ちなみに自分、宇城っす。ままま、川城さん、ちょっとここからは、もうちょいわかりやすく、てきとーに、僕が説明しますんで。だ〜いじょぶっすよ川城さ〜ん。これでも自分、説明成績は若手トップなんで。川城さんは僕の隣で、ドシンと構えてくれてればいっすから。はい。はい。
矢野は自らの身体感覚を取り戻しつつあった。この袋小路で、怪しげな説明委員会の二人組に揺り起こされて、ついに自分が初空を迎えたという事実を伝えられてから、ずっと、自分の体を見知らぬ誰かに操られているような心地だった。いつものように歩き出そうと足を動かしても、前に進まない。地に足が着いていないと、体の向きを変えることもできない。これが浮空期か。タキシード姿の男、川城の説明を聞きながら、矢野は昨日の出来事や恋人の浮気相手のこと、サンダルで家を出たのに今は裸足だということ、雨が降り出しそうな雲行き、何枚も溜まっている公共料金の請求書のこと、などなど、現時点で頭に浮かぶ限りの有象無象を挙げては目を閉じ、小さく首を横に振った。そんなこと考えてなんになるというのだろう。自分だって、恋人との生活に限界を感じていたはずだろ。仕事だって、そろそろ本気で探さなくては。バイトでも簡単な内職でも、コンビニでも工事現場でもポスティングでも汚染処理でもなんでもいい、恋人とすっぱり縁を切るからには――やはり、そうするしかないのだろうか――、自分の時間を売ってお金に換える方法を、早いとこ見つけるしかない。それ以外のことを考えるのはやめよう。やめよう。
川城の説明通り、今の矢野には性欲がまったく無かった。元から存在していないみたいに、きれいさっぱり消え去っていた。なるほどこれが生理か。矢野は、二八歳という、あまりにも遅咲きすぎる心身の変化を、戸惑いつつも楽しんでいた。女性の生理と比べて、初空の年齢は個体差が激しい。五歳で初空を迎えた宇城――今、川城の隣で矢野に向かってしゃべり続け、言葉を書き連ね続けている男――のような人もいれば、矢野のように成人後に初空を迎える人もいる。死ぬ間際、病床で初空を迎えるようなケースも極稀にだが、存在する。初空年齢という点のみで語ると、生理というよりむしろ水疱瘡やおたふく風邪に近い。のかもしれない。矢野は宙に浮かせっぱなしだったおにぎりを口に投げ入れ、というより口元まで移動させ、パン食い競走の要領でかぶりつき、ゆっくりと咀嚼した。
携帯を見ると不在通知が何件も届いていた。知らない番号だ。昨日のカラオケ館からだろう。なんで馬鹿正直に自分の電話番号を書いてしまったのだろう。名前も、きっちり矢野賢介と本名を書いてしまった。いや、それよりも、なんであのとき逃げてしまったんだ。いやいや、そもそも、なんで恋人の部屋で自分はあんな振る舞いをしてしまったんだ。なんで外に出たんだ。なんで財布を忘れたんだ。悔やんでもきりがない。どうせもう身元は割れているのだ。川城と宇城ですら把握している。自分があれこれ案じても何も変わらないのだ。矢野は携帯でこの先一週間の天気を調べた。次に晴れるのは四日後か。
矢野は左人差し指を甘噛みし、携帯を宙に浮かせた。そのまま左腕を勢いよく上げると、携帯はものすごいスピードで上へ上へとグングン昇っていく。このまま昇り続けるとどうなるんですかね。甘噛みしたまま矢野が宇城に話しかける。まあ、大気圏は余裕で越えるっすね。大気圏を越えて、さらに昇り続けたら、どうなりますかね。だんだん、空気が薄くなっていくんじゃないっすか、詳しくは知らないっすけど。空気が無くなっても、さらにさらに、昇り続けたら、どうなりますか。宇宙まで行きますね。宇宙を進み続けたら、どうなりますかね。あーそれ、たしか、どっかで読んだか聞いたかしたんすけど、それで、どんどんどんどん進み続けて、何光年も先の宇宙まで進み続けて、そうやって浮空期の人たちが飛ばした物体が星になって、星と星を空想の線で繋げて星座にして、だから僕らがこうして星空を見て、おうし座だとかふたご座だとか言っているものは元々遠い昔の人たちが宇宙に飛ばした貝殻とか、お椀とか、鏃とか、藁とか、羽ペンとか、モーニングスターとか、パンケーキとか、ガラス瓶とか、生糸とか、砥石とか、綿棒とか、力士のマゲとか、ホワイトアルバムとか、噛み煙草とか、パピルス紙とか、羊の毛とか、豆電球とか、画鋲とか、人骨とか、『ターゲット1900』とか、サガミオリジナルとか、バグパイプとかで、だから、死んだ人がお星様になるっていうのはあながち間違いじゃないと思うんすよね。あれ、なんか、語っちゃいましたね。つまり、俺が今操作しているこの携帯も、いずれは星になるんですね。あー、多分、そっすね、なると思います。矢野の左人差し指は唾液でふやけはじめていた。身元が割れているということは、きっと今頃、警察にも連絡がいっているのだろう。早くも捜索が始まっているのかもしれない。恋人の家まで捜査の手が伸びている可能性だってある。別れの瀬戸際でも迷惑をかけてばかりだ。昨日は恋人とその浮気相手にずいぶんとひどい仕打ちを受けたが、五年間、ひどい仕打ちを受けて続けてきたのはきっと恋人なのだろう。喧嘩になるとすぐに手を上げてしまうし、お金は勝手に使うし、酔って暴れて食器を割ったことも何度かある。もう恋人の部屋には戻れないだろうし、戻りたくないし、警察から逃げ続けなければならない以上、仕事を見つけることすらままならない。財布もカードもない。あるのはポケットでくしゃくしゃになっている煙草とライターだけ。矢野はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。吸って、吐いて、一呼吸置いてから左人差し指の甘噛みをやめてしまっていたことに気づいたが、遥か彼方まで昇っていった携帯は一向に降下してこなかった。煙草の火種が指先まで迫ってきていることに気づいた宇城は矢野に素早く携帯灰皿を差し出す。ああ、悪いね。いいんすよ。心中、お察しするっす。矢野は携帯灰皿にちびた煙草を押し込んで、宇城に返した。宇城は渡された携帯灰皿を、また矢野の手のひらに戻す。いいっすよいいっすよ、それはあげますんで。その携帯灰皿を見るたびに、ぼんや〜りって感じでいいんで、今日この日の僕のこと、思い出してくれたら。って、気持ち悪いっすよね自分。いやよく言われるんすよ、お前は説明対象に情が移りやすいから気をつけろ、って。ま、僕、携帯灰皿何個も持ってるんで、大丈夫っすから。矢野は口元を緩めて、ありがと、とぼそぼそ声でお礼を言った。携帯は落ちてこなかった。大気圏を越えて、地球の周回軌道にでも乗ったのだろう。それとも周回軌道すら越えて、いずれどこかの惑星にたどり着くであろう隕石やスペースデブリの一つとして宇宙空間を漂っているのだろうか。矢野にも、もちろん宇城にも川城にも、それはわからなかった。ぽつりぽつりと降り出してきた小雨に、傘を差すか否か、三人はそのことばかり考えていた。傘なんてないのに。
同時刻、軽量鉄骨造2階建てのアパートの一室。矢野の恋人は二股相手と並んで穏やかな寝息をたてていた。いや、眠っていたのは二股相手だけで、恋人は一時間ほど前に目覚めてから、二股相手の寝息を自らの前髪に当てたり、脇腹を指の腹でなぞるように触れたりして、再び微睡みの気配がやってくるのを待っていた。水揚げされたアンコウのように口を開けて眠る二股相手を見つめる恋人の表情は柔らかく、その表情から矢野との関係性や昨夜の一部始終を窺い知ることはほとんど不可能である。今夜はなにか好きなものを食べに行こう。朝目覚めてすぐ、寝床から抜け出すまでの時間、「今夜」について考えることが恋人の幼少期からの癖のようなもので、それが、一日のうちでもっとも愛おしい時間なのだと、以前、恋人は矢野に言ったことがあった。眠気は一向にやってこない。二度寝を諦めて、恋人は台所でベーコンとタマネギを細かく刻んで炒めた。昨日、矢野が部屋を出ていってから作ったなめこのみそ汁をコンロで温めている間、恋人は矢野が買い置きしていたメビウス8mgのカートンをまるまるゴミ箱に捨てて、灰皿代わりに使っていたインスタントコーヒーの瓶を捨てて、毛先が開いてエリンギのカサのようになっている矢野の歯ブラシを捨てて、LOFTで買ったペアのマグカップ――キース・ヘリングの作品がプリントされている――を捨てて、ここぞというときに食べようと思っていた矢野のエクレアを食べて包装を捨てて、捨てて捨てて捨てて、ゴミ袋を二重片結びできつく結んで、玄関の隅に置いた。ベッドでは、二股相手がもんやりと宙に浮いていた。ああ、今月もきたか。大丈夫かな。みそ汁の入った鍋から湯気がもうもうと出ている。恋人はコンロの火を止めてお椀にみそ汁をよそい、ベーコンとタマネギの炒めものを小皿に盛り付け、冷凍ご飯をレンジで温めて、ひとりで朝ごはんを堪能した。今夜はなにを食べよう。どこに行こう。脂っこいものが食べたいかも。チキン南蛮とか。かつ吉の生姜焼き定食とか。脂っこさとはまったく関係ないけれど、すこし足を伸ばして、川沿いに最近オープンした小洒落たヴィーガンレストランに二人で行くのもいいかもしれない。考えながら箸を動かしているうちにお椀も小皿もお茶碗も空っぽになり、満足そうに唇を舌で舐めてから、恋人はシンクに食器を持っていき、スポンジに手を伸ばす。
どこかで誰かと誰かが話している声がする。向かいの公園から犬の鳴き声が聞こえる。通り沿いにある中学校からは野球部の掛け声。吹奏楽部がホルンを、ユーフォニウムを、サックスを、フルートを、ティンパニを、吹く音、鳴らす音、叩く音。携帯がさっきからずっと震え続けているけど私はそれを無視し続けている。冷蔵庫の稼働音が微かに部屋の空気を震わせている。油分をゆっくりさらっていくお湯が、お皿を流れていく音、シンクに落ちていく音。洗剤の泡と共に油分が洗い流され、水切りカゴに置かれたお椀が、小皿が、お茶碗が、それらに付着した水滴が、窓から差し込む光を反射して輝く。私は、ベッドで浮かぶ木下が起きたらコーヒーでも淹れようか、とか思ったりしている。ヴィーガンレストラン。ふふん。やっぱいいや。今夜はピカソで豆乳でも買って、豆乳鍋にしようか。私も木下も湯葉が大好きなのだ。脂っこいものが食べたいのかも、という気分はあっという間に消え去っていた。水切りカゴのそばにあった矢野の携帯灰皿を手にとって、私はそれをゴミ箱へシュートした。
木下の寝息は聞こえてこない。
洗い物を終えた私は、指から水がつたつたと滴っている状態で、ベッドにもう一度潜った。滴っていた水が布団や枕カバーに吸収されて私の手は潤いを失っていく。叩いても突っついても木下は呻き声すら出さない。私はすぐにまた起き上がり、ベッドの上で体育座りをして、自分の膝に顔をうずめながら、隣で、空中で、ふよふよと浮かびながら眠っている木下の、静かな寝息に耳を傾ける。
五年後、矢野の携帯は地球の周回軌道を外れ、凄まじいスピードで大気圏に突入し、地表にたどり着く前に跡形もなく燃え尽きてしまう。