0046 ダンボール

ダンボール

 気持ち悪い。
 雨がたくさん降ると吐きそうになる。いつからだろう。20歳を過ぎてからこうなったような気がする。仕事はとっくに辞めていて、電気ガス水道も、しっかりここを去る直後に供給停止されるようにしてある。あとはもう、ここを去ることになる日を待つだけだ。いや、だけじゃなかった。ベッドから上半身を起こして、壁にもたれてベランダの窓を見たり、ダンボールで埋まった壁面を眺めたり、首を何度か右に左に、動かして、こんなに曇っているのにそれでも部屋はほの明るくて、午前、午前はすごいな、と思う。午前様ってどういう意味だったっけ。たぶんいま、わたしが思っているような意味ではないことだけがわかる。ベッド脇に置かれた、サイドテーブル代わりに使っている学校用の椅子(職場の備品置き場からくすねた)、その上に載ったマグを手に取る。昨日いれた珈琲がまだすこし入っていて、死んだ羽虫が一匹浮かんでいるのが見えて、指先にくっつけるようにして取って、窓を開けて網戸になすりつけて、窓を閉めて、珈琲を飲む。時間の経った珈琲の、味の枠組みだけが取り残されたような鈍い不味さとは関係なく、雨のせいで、すこしえずく。えずくのをごまかすように咳き込んでから立ち上がって、残った珈琲をシンクに捨てる。そのままマグに水道水をいれて、口をゆすいで、うがいをして、残った水道水を飲む。口の中がねっとりする。それでも歯を磨く気にはなれなくて、シンクの前で服をすべて脱いで、ユニットバスに干してあるというより投げ置かれているような格好の下着を取って、つけて、このブラはもうだめだ、伸び切っていてもうだめだ、と思いながら他のものを着ける気にはなれない。着替えたことそれだけが今日行うべきたったひとつのタスクであったような気にすらなって、気持ち悪い、と思いながらテレビの電源をつけてまたベッドに入る。雷が鳴った。雷が鳴って、ひとりでいることが急に楽しくなる。ここは安全。ここを去ったあとにここと呼ぶことになる新しい場所でもわたしは、安全になっているだろうか。安全に雷に楽しくなっているだろうか。ドラマの再放送は途中から観てもなにもわからなくても罪悪感がない。再じゃない、真っ只中、真っ最中のドラマには簡単に罪悪感が湧くのはなぜだろう。友達に対してもそうかもしれない。友達の口から語られる話が過去であればあるほど、話半分に聞いていても罪悪感がない。いまであればあるほど、ちゃんと聞かなければ、という気分になる。友達も、そうだろうか。わたしの口から語られる話が過去であればあるほど、それは味の枠組みだけが取り残された昨日の珈琲のようなどうでもよさに、鈍さに、近づいていくものなのだろうか。だとしたらわたしのあの話だってきっとそうだ。それでもわたしが繰り返し友達にあの話を語るのは、それがわたしにとっていつまでもいまであり続けているからだ。再放送のドラマで役者は役者に切なげな表情で言葉を発している。わたしはベッドからまた立ちあがって、どうして真っ先に片付けなかったんだろう、と思いながら、大きなダンボールにテレビを入れた。テレビはすべての線が繋がったままで、電源がついたままで、ダンボールの内面を照らしている。それを上から眺めて、自分の中の冷たい部分が満たされていくのを感じる。気持ち悪い。雨がたくさん降ると吐きそうになる。わたしは堪え切れなくなって、ダンボールの中に、テレビの上に、昨日の珈琲やひじきやそら豆やハンバーグや白米やミロをすべて出す。