0044 ボーイ

ボーイ

 日本国千葉県市川市塩浜二丁目にある市川塩浜という中途半端な駅の安っぽいベンチに、その男の子は座っていた。毎日いた。毎晩いた。日がな一日そこにいた。あるときは、ポケモンパンを頬張っていた。あるときは、三ツ矢サイダーのペットボトルを握っていた。あるときは、電車のドアが閉まるタイミングに合わせてフエラムネを鳴らしていた。あるときは、ぶんぶんゴマを一途に回転させ続けていた。どこで湯を調達したのか、カップヌードル(シーフード)に蓋をして、三分間、じっと待っていることもあった。だいたいは小ぶりの赤いリュックサックを背負っていたが、コンビニのビニール袋だけをベンチの傍らに置いているときもあった。紙袋のときもあった。そうしていつも、そこにいた。
 市川塩浜駅の利用客は、周辺の工場や倉庫に勤めている会社員や契約社員やアルバイトがほとんどだった。あとは、それらの場所を監査・視察するためにやってくる、本社の人間。男の子はそのことを知らない。なんだかみんな、一様に、具合の悪そうな顔で電車から出てくるな。男の子はそう思っていた。
 ごくまれに、電車を待っている人が、男の子に話しかけてきた。ボク、どうしたの? 学校は? お母さんは? 話しかけてくる人は、なぜかほとんどが女性だった。ブリーフケースを肩に掛け、つやつやのパンプスかヒールを履いているような。視察の人間。男の子はそのたび、相手の眉間あたりを見つめ、意味ありげなジェスチャーと、意味ありげな口パクをした。自分の耳のあたりを指したり、言葉にならない音のようなうめき声をかすかに出した。そうすると、だいたいの人は黙り込んだ。困った顔もした。そしてそのあと、大抵の人が慌てた様子でカバンから手帳とペンを、あるいはスマホを取り出した。男の子はそれを受け取り、毎回、こう書いた。
「ひとを まっています だいじょうぶです ありがとう」
 相手は安心と困惑とバツの悪さが入り混じった顔になって、手を振って男の子から離れる。だいたいそんな感じだった。
 男の子は考える。どうして話しかけてくるとき、ボク、って言ってくるのだろう。なんだか、名前みたいだ。マイネームイズボク。男の子は不思議だった。僕はただここにいるだけなのに、話しかけてくる人は、どうしてみんな学校のことや親のこと(それも、なぜか必ず、お父さんじゃなくて、お母さんのこと)を聞いてくるんだろう。どうしたの? と、逆に聞いてみたかった。みんな、どういう答えを求めているのだろう。
 男の子はその日、小さな巾着袋を持っていた。中にはパインアメが袋いっぱいに詰まっていた。男の子はパインアメを舐める。眼からじわじわと浮き出てくるような涙で、男の子はこの駅にも春がやってきたことを知った。男の子は、花粉症だった。
「悪夢ばーっか、最近」
 男の子のとなりに男が座っていた。男の子は男がしゃべりだすまで、男が近づいてきたことにも、となりに座ったことにも気がつかなかった。男の子は電車の発着を告げる電光掲示板を横目で見て、自分がほんのすこしの間、眠っていたことを知った。
「この前見たのは、嵐の二宮とピアノコンサートをする夢。ステージ上にヤマハのグランドピアノが二台置いてあって、客席から見て俺は右、ニノは左のピアノの前に座って、ぎゃんぎゃん演奏した。もうめっちゃ鍵盤叩いた。俺はその楽譜を、そのとき初めて見た。知らない曲だった。当然、弾けない。それでも俺は頑張った。でもダメだった。鍵盤は叩いたけど。ぎゃんぎゃん叩いただけだった。コンサートは大失敗だった。俺は曲の途中でステージ上から逃げ出して、ペットショップで犬用のトイレを買った。それからあとは、覚えていない」
 男は、男の子の方を見ながら、大道芸人がジャグリングをするときのような表情と身振りで話し続けた。
「そのさらに前は、映画を撮る夢を見た。俺は寂れた小学校みたいなところで寝泊まりしていて、隣の部屋で寝泊まりしていたカメラマンみたいな奴にカメラを渡されるんだ。で、こう言われる。『俺の代わりに映画を撮ってくれないか』。俺はカメラを渡される。録画機能のない、古いタイプのデジタル一眼レフカメラだった。俺は写真を撮りまくった。写真を撮るっていう行為が、つまりは映画を撮るってことだった。それからいろいろあって、俺は幼なじみと二人で、サバンナみたいな場所を、大量のチューバを担いで、幼なじみはチューバをロープに括って、引きずって、歩いていた。それからあとは、やっぱり覚えていない」
 男は缶コーヒーを持っていた。プルトップは開いていない。熱くてまだ飲めないのだ。男は、猫舌だった。
「昨日は、ヤクザになった友達から逃げ続ける夢を見た」
 男は、あらかじめ決められていたかのように背中を曲げて、男の子の顔をのぞきこんだ。
「なあどう思う?」
 男の子は男の方を向き、あらかじめ決められているジェスチャーと口パクをした。耳のあたりを人差し指でトントンと叩き、うめき声をあげた。男は眼をすこしだけ見開いて、笑いを堪えるように口をすぼませた。それから、缶コーヒーのプルトップを開けて恐る恐るコーヒーをすすった。
「ふうん」
 缶コーヒーの中身は男の舌がぎりぎり耐えられる程度の温度になっていた。男は缶コーヒーを、今度はさっきより勢いをつけて飲み、男の子の耳元に顔を寄せた。
「つくば山に、喰いつくばあさん」
 男はささやいてから、また口をすぼませて、コーヒーを口に含んだ。男の子はそれが、駄洒落だということに遅れて気づく。男の子の脳裏に、つくば山を食い荒らす巨大な婆さんの画が浮かんだ。男の子は、自分の顔が歪むのをなんとか堪えた。
「あの、人を、待ってるから」
 男の子は、口を開いた。なんだかもう、嘘をついてもどうしようもないような気がした。
「係長がさあ」男は男の子の言葉を無視して言った。「係長が、俺に言うんだよ。『社員にならないか』って。冗談じゃねえって話だよな。部長だか支店長だかしらないけど、とにかく係長より偉いおっちゃんもそれに賛成しているふうでさ。たまったもんじゃないよな」
 男は缶コーヒーを飲み干した。
「どうしたもんかしらね。やんなっちゃう」
 男は立ち上がり、カラになったコーヒー缶をホームの白線の上に置いて、助走をつけて思い切り蹴飛ばした。コーヒー缶は向かいのホームの壁まで飛び、地面に落ちてからしばらくからころ転がった。コーヒー缶の転がったホームにも、男の子と男がいるホームにも、男の子と男以外に人はいなかった。向かいのホームの電光掲示板とスピーカーが、まもなく電車が到着することを簡潔に告げていた。
「みんなさ、忘れてるんだよ。俺、ちゃんと言ったんだよ。面接のときに『半年で辞めます』って、ちゃんと。忘れてるんだよな。半年。頑張ってると思うわ」
 男はジーパンの尻ポケットからぱんぱんに膨らんだ長財布を取り出した。
「なんか飲む?」
「いらない」
「あ、そう」男は自販機に向かった。「てか耳、聴こえてんじゃん」
 男はさっきと同じ銘柄の缶コーヒーを買って、男の子のとなりに戻ってきた。男は男の子に爽健美茶のペットボトルを渡した。男の子は、それを左手で受け取った。
 コーヒー缶の転がったホームに電車が停まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。男は缶コーヒーを右手から左手に、左手から右手に、何度も持ち替えながら、缶コーヒーがぬるくなるのを待っていた。最初からつめた〜いの方を押せばいいのに、男はそうしなかった。男は、ぬるい缶コーヒーが好きだった。
「どうしたもんかしらね……。やんなっちゃう」男の子は、それが男の口癖なのだと知った。
「だから、なーんか今日、起きたときから行く気、しなくって、こんなところにいるわ」
 男はジーパンのポケットからiPhoneを取り出し、男の子に見せた。
「ほらこれ、係長、しつこいんだから」
 男はiPhoneを男の子の方に向けたまま、画面を下方向にスワイプさせた。
「こんなに。連絡しない俺も俺だけど。どんな病気がいいかなあ。風邪って言えばじゅうぶんかな? どういう咳ならそれっぽくなる?」
「なんの仕事」
「いつの時代も、流行り病は仮病だよ。係長、困っちゃってんだよ。俺がいないと仕事、回んないから。大幅ペースダウンよ。結局、ペースダウンするだけよ。代わりなんていくらでもいるって。やんなっちゃう。いいんだけど」男は言った。「仕事? 倉庫だよ倉庫」
「どこの倉庫」男の子は言った。
「どこだっていいよ」男は言った。「あっちのほう。海の近く」
「海沿いなのに潮のにおいがしないって、やんなっちゃうよな。この駅もそうだよ。もっと漂ってきてもいいだろって。いいけどさ。山が好きなんだよ俺って」
「耳が悪いのは、ほんとだよ」男の子は言った。
「仮病?」男は缶コーヒーを振った。缶コーヒーは着々とその温度を下げていた。
「ちがう」
「いやでも、あの演技はなかなか。将来有望なんじゃないの」
「ちがう」男の子は言った。「きいて」
「やだ」男は缶コーヒーのプルトップを開けた。「さっきの駄洒落、最高じゃない?」
「もっといいの、知ってる」
「ほーん」男は口をすぼめてコーヒーを口に含んだ。「言ってみ」
「ブラジル人のミラクルビラ配り」
「それは早口言葉だ」男は言った。「ブラジル人のミラクルビラ配り! しかも、あんまり難しく、ない!」
「おやすみなさいを言いに行くと、ママ、いつも戦争してる」
 男の子と男がいるホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に告げていた。終点は東京。男の子は、眼をこすった。主に眼にくるタイプの花粉症だった。
「去年の大晦日はひどかったな。普段は五、六個の駅も二〇とか三〇だし、舞浜なんてただでさえいつもダントツで出荷が多いのに、一五八だぜ。一五八。やんなっちゃったよ。ほんと。シールの束がこんな量、あんの。あれは戦争だった」男は缶コーヒーをくぴくぴ飲んだ。
「それで、だんだん、耳がおかしくなった」男の子は言った。「戦争って、うるさいから」
「俺も俺の周りのバイトも日雇い連中もひーこら言いながらカゴにひたすらダンボール積んだよ。いや、言ってないけど。実際は黙々としてたよ。静かなもんだったよ。粛々としてた。うるさいのは係長とそのとりまきの契約社員どもだけ」
 男の子と男がいるホームに電車が停まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。電車は二〇分ほどで東京駅に到着する。東京駅には、電車に乗る人も、降りる人も、たくさんいた。
「あれはバケツリレーみたいだった。みたいだったっていうかバケツリレーだった。あんまり数が多いもんだから、みんなカゴ持っておんなじエリアに集まっちゃうんだよ。途方も無い流れ作業で、まあそれはいつものことなんだけど、だから、なんとか普段どおりの時間に帰ることができたけど。でももう、無理だね」男はタバコが吸いたかった。「無理だね、もう」
 男の子は、巾着袋からパインアメを取り出し、口に入れた。
「あ、ずる」男は言った。「ちょうだい」
 男の子は、男にパインアメを一つあげた。
 男は、それを口に入れた。
 お互いのパインアメが溶けてなくなるまで、男の子と男はほとんど口を開かなかった。男の子と男は、それぞれ違うものを見つめていた。男の子は向かいのホームに転がっているコーヒー缶を、男は男の子のうなじを見つめていた。男の子の髪は陽を浴びて、輪っか状に光っていた。自宅アパートの取り替えて間もない蛍光灯を男は連想し、その連想を気味悪く思った。駅のホームには男の子と男以外誰もいなかった。男の子と男以外、みんなみんな、工場で、倉庫で、コンビニで、それぞれの場所で働いていた。係長はいつものように奇声を発しながら嬉しそうにフォークリフトでパレットを移動させている。バイトや契約社員はカゴ台車で、あるいはローリフトにパレットを挿して、駅構内の売店へ出荷するための飲料水が詰まったダンボールを駅別の仕分けシールの表記に従ってどんどん積み上げている。シールの束を口に咥えて全速力で倉庫の中を走り抜けている。そのことを男は知っていた。男の子は知らない。
 男の子と男がいるホームを快速電車が通過したとき、男の子と男の口の中のパインアメはすでになくなっていた。男はカラになったコーヒー缶を両手でもてあそんでいた。男の子は右手で両眼の涙を拭った。男は、花粉症ではなかった。
「将来の夢は?」男は言った。コーヒー缶をマイクに見立て、男の子の前に差し出す。
「ふつう」
「ふつう、て」男はコーヒー缶を下げた。「どうしたもんかしらね」
「たのしいよ」
「うそつけ。ママの戦争でも終わらせてから言いな」
 男は立ち上がり、伸びをした。
「んーあっ」
「ママ、神様が死んじゃったことに気づいちゃった」
「へえーえ」あくび混じりの声で男は言った。
「そいつはすげー。もはやママが神様なんじゃないの」
「ある意味」男の子は新しいパインアメを舐め始めた。「ママ、なんでもできるよ」
「ある意味?」男はまたベンチに座った。
「うん。……うん」
 男の子は、神様が死んだときのことを思い出していた。つい最近のことだ。男の子が家に帰ると、神様はリビングのホットカーペットの上で、仰向けの状態で目を見開いたまま固まっていた。男の子は神様の眼をそっと閉じてやり、洗面所から取ってきたバスタオルを床に敷いて、その上に神様を寝かせた。朱色がかった身体は見る間に灰色へと変わっていき、柔らかな尾ひれは押し花のようにしわしわに乾燥していった。男の子は神様の前で手を合わせ、しばらく眼を閉じてから、バスタオルで神様をくるんで持ち上げ、近所の公園の生け垣に神様を置いて、その上に申し訳程度の砂をかけた。線香がなかったので、台所の引き出しからタバコを一本抜き出し、それに火をつけて、砂でざらついた神様のお腹あたりにそっと挿し込んだ。男の子は、もう一度神様に手を合わせ、公園を後にした。
「僕が勝手にお葬式したから、もう僕を育てたくないんだと思う」
 コーヒー缶の転がったホームに箒とちりとりを持った駅員がやってきて、掃除を始めた。男の子と男は、それを黙って見つめていた。ここからではコーヒー缶以外の何かが落ちているようにも、落とすべき汚れがあるようにも見えないけれど、きっと駅員にしか見えないいろいろなものが落ちているのだろう。男は思った。駅員はこっち側にも来るのだろうか。何かが落ちているようには見えないけれど、きっとやって来るのだろう。駅員は階段前の点字ブロック周辺を執拗に箒でなぞっていた。
 男は、自分がまだ男の子だったころのことを思い出していた。朝が苦手で、ドッジボールと給食の牛乳が好きで、放課後はランドセルをハンマーのようにしてしょっちゅう誰かと戦っていた。まあだいたい、今とさして変わんないな。男は兄のことを思った。
「兄妹は?」男はもう一度コーヒー缶を男の子の前に差し出した。
「いない」男の子は言った。
「一人っ子ぉ〜」男は言った。「ま、俺もそんな感じだけど」
 男がまだランドセルで戦っていたころ、男の兄は家からいなくなった。男の兄は高校卒業直後に普通自動車免許を取得し、親の財布から抜き取ったお金で北海道へと飛び、ネットで知り合った人の家を転々としながらヒッチハイクで徐々に南下し、今は沖縄本島の小さな民宿で、観光客に広東語やフランス語を教わりつつ住み込みで働いている。お金が底をついたら自殺するつもりで家を出たんだ。一年ほど前、全身褐色に焼けた兄がカメラ通話越しに笑ってそう言うのを、男はしらけた気分で聞いていた。
「行かなくていいの」男の子はパインアメを舌で転がしながら言った。
「ん? 何?」コーヒー缶が男の子の前に差し出された。「仕事?」
「そう」
「何をいまさら」男はふふんと笑う。「そのセリフ、そっくりそのままお前にお返しするわ」
「僕は人を待っているから」
「いつまで?」
「いつまでも」
「そうですか」男はコーヒー缶をベンチの下に置いた。「やんなっちゃう」
「帰らないの」
「帰ってもいいよ。でも」男はベンチの上であぐらをかいた。「でもお前が待ってる人って、実は俺のことなんじゃないの」
「……」
「あ、それ、わかるよ。絶句ってやつだ。キモー、でしょ。怖い? 怖がっていいよ。バア」男は男の子を指差して笑った。
「人を待っているから」男の子は繰り返した。溶けて薄くなったパインアメを歯でガリガリ砕く音が、男の子の耳にだけ響いた。
「ああ、ほらこれ、係長からのラブコール」男は震え続けているiPhoneを取り出し、男の子に見せた。「係長も、どうやら人を待っているらしい」
 やがてiPhoneの振動は止まり、男はiPhoneをジーパンの尻ポケットに押し込んだ。
 男と男の子は、喋りながらまったく別々のことを考え続けていた。男は兄と、兄がいたころの自分を。男の子は、神様について。思い出し、考えていた。ほんとうはどうするべきだったのか。どこかで、何か決定的な間違いをおかしてしまったのだろうか。男と男の子は、それぞれが何を思って、考えているのかを知らない。ふたりは知らない。
 ふたりのホームに鳩がやってきて、数歩ごとにアスファルトをついばみながらベンチの前を横切った。鳩の片足には短いビニール紐のようなものが絡まっていて、鳩が歩くたびにカサカサと微かな摩擦音が鳴っていた。
「帰ろうかなあ」男は男の子が左手に握っている、まだ一度も開けられていない爽健美茶のペットボトルを見た。「次の電車で帰るわ」
「これ」男の子は爽健美茶を男の鼻先に掲げた。「いらない」
「パパにでもあげな」男は言った。「最後の質問。お名前は?」
「ボク」
「は」気だるそうに立ち上がりながら男は短く笑った。「ママの戦争が終わるといいねえ」
「終わらないと思う。しばらくは。ずっと」
「うそ。お前次第だろ」男は腰に手を当てて線路を見た。腰の形に沿ってシワができたブルゾンを見て、この人ちゃんと食べているんだろうか、と男の子は思った。
「あーあ、俺も行きてえ〜、南の島」
 男はあくびを噛み殺しながら、線路を見つめ続けていた。

 男の子は、日が暮れて、夜になっても、市川塩浜駅のホームのベンチにずっと座っていた。帰宅ラッシュでホームが混み合い、ベンチが疲れ切った肉体労働者で埋まっても、男の子は座っていた。ラッシュも終わり、駅のホームがふたたび廃墟のような寂れた静けさを取り戻したころ、男の子は立ち上がった。巾着袋をベンチに置き、ベンチの下にあるコーヒー缶を拾ってゴミ箱に入れた。左手に爽健美茶のペットボトルを、右手に巾着袋を持って、男の子は二三時五六分発の東所沢行きに乗った。
 人気のない電車の中で、男の子はすこしだけ眠り、すこしだけ夢を見た。夢の中で、男の子は大学生だった。数人の友人と先輩に囲まれて、お酒を飲んだりタバコを吸ったり、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、走ったりうずくまったりしていた。それは夢にしてはあまりにもありふれた、だけどどこか切実な、現実の延長線上にあるような夢だった。
 目が覚めた男の子は、停車駅の看板を見てまだ電車が二駅分しか移動していないことを知る。男の子は夢を見たことすら覚えていなかった。男の子は発車ベルを聴きながら、眠っている間に床に落ちてしまっていた爽健美茶のペットボトルを拾った。
 男の子は想像する。駅のホームを行き来する電車のこと、その電車を運転する人、その電車を作った人、その電車に乗る人のこと、そして今この電車に乗っている人のこと。みんなの家のことを。その神様のことを。そして自分の家を思う。新しい神様を見つけないといけないのかもしれない。母親を戦場から引っ張り出すには、それしかないような気がした。男の子は後頭部を窓にくっつけて、眼を閉じた。今度は、夢を見なかった。

 兄は何かと繊細なやつだった、と男は思っている。人混みや集団行動が苦手で、バスや電車に乗るのもあまり得意ではない。調子が悪いときは家から外に出るのもむずかしくなるほどだった。幼いころから、学校や公園より、ネット上に多くの友人がいた。へんなところが凝り性で、パソコンのマインスイーパーやタイピングゲーム、パズルゲームをひたすらやりこんでいた。肉が駄目で、馬のように草ばかり食べていた。そうかと思えば突然調味料作りにハマり、夕飯が兄の作った味噌やラー油に依った献立ばかりになった時期もあった。首筋と腕の関節部分にしぶといアトピー痕があり、季節問わず荒れていて、四六時中かきむしってはフケのような皮膚の欠片をあたりにばらまいていた。男が兄について知っていることは、それくらいだった。
 男はアパートに帰ってから、敷きっぱなしの薄い布団の上でしばらくボーッとしていた。係長はもう、男に電話をかけてこなかった。誰も男に電話をかけてこなかった。それでいいと男は思った。
「ブラジル人のミラクルビラ配り」
 男は仰向けに寝転び、眼を閉じて呪文のように何度もつぶやいた。簡単すぎるな、そう思った。つぶやき続けているうちに男の口はしだいに動かなくなり、静かに息を吐いて、眠り始めた。
 日付けが変わるすこし前、男は起き上がった。頭をかきながらしばらく時計と窓を交互に見つめ、水を飲み、トイレに行ったあと、兄に電話をかけた。自分から兄に電話をかけるのは初めてだな、と男は電話のコール音を聴きながら思っていた。
「おお」
「よお」
「もしもし?」
「うん。もしもし」
「どしたん急に。めずらしい」兄の声は穏やかだった。
「沖縄は今、何℃だ」
「えっと……えーっとね」兄の声がくぐもって聞こえる。スマホを顔から話して、天気情報を見ているのだろう。「22℃っす〜」
「元気か」
「まあ元気」
「焼けてんのか」
「そりゃもう。カメラにする?」
「いやいい。野菜ちゃんと食ってんのか」
「それ俺に言う?」
「もう死なんのか」
「そうだね」兄は間髪を入れずにそう言った。「まあなんとか、生きてみようと思ってるよ。今んとこ」
「つまんね」
「なんだそれ」兄は笑った。「そっちはどう?」
「何が」
「元気か」今度は兄がインタビュアーだ。
「ノーコメント」
「家賃とかちゃんと払ってんのか。払えてんのか」
「ノーコメント&ノーコメント」
「野菜ちゃんと食ってんのか」
「ノーコメント」
「話にならねー」兄はまた笑った。「両親は元気か」
「しらん」男は間髪を入れずにそう言った。「知ってたとしても、お前には教えないね」
「そりゃそうか。ま、いいや。とりあえず生きてるでしょ、たぶん」
 男と兄はしばらく黙った。通話口からは、よくわからない言葉で笑い合う人の声が聞こえた。琉球語も外国語も、兄の言葉も、同じようなもんだな。男の部屋は、静かだった。隣の部屋の生活音も聞こえない。
「電話出て大丈夫だったのか」
「いまさら。大丈夫。宿泊客と酒盛りしてただけだから」
「タノシソウデナニヨリデスネ」
「なんだよ。もしかして酔ってるだろ」
「ノーコメンツ」
「めんど」笑いながら兄は言った。
「来週の日曜日、ヒマか」
「ヒマかどうかはわかんないけど、まあ、ここにはいるよ」
「そうか」
「何?」
「俺、そこ、行くよ」
「あ、ほんとに?」
「お前をぶっ殺しに行くわ」
「あ、ほんとに」
「通報でも逃亡でもなんでもすりゃいいよ」
「しないよ。ワターシノアイスルブルァーザーデスカラ」
「つくづくお前はつまんねえ」
「知ってるよ、そんなこと」
「逃げるなよ」
「逃げないよ」兄の声は優しかった。兄が家にいたとき、こんな声で話してくれたことがあっただろうか。男は思い出せなかった。「まあ、おいでよ。待ってるよ」
「ファック」
 男は電話を切り、電源も切ってからiPhoneを放り投げた。男は本気だった。部屋を出て、コンビニへ行き、ATMで残高を確認した男は、これから自分がやるべきことを考えながら、昼間に飲んだのと同じ缶コーヒーを買った。まずは刃物。

 男の子がグランハイツ東所沢の四〇五号室の玄関扉を開けたのは、日付が変わってからおよそ一時間半後のことだった。男の子はダイニングテーブルの脚元に爽健美茶のペットボトルを置いた。床に散らばっていた不動産のチラシを一枚手に取り、テーブルの上に無造作に転がっていた赤いマッキーの太字のほうで、チラシの裏に大きく「パパへ」と書いて、爽健美茶のペットボトルの下に挟んだ。
 男の子はキッチンでお茶碗に保温中のご飯をよそい、サンマの照り焼きをフライパンから小皿によそい、ダイニングテーブルの上にそれらを置いて、立ったまま食べた。男の子は、少食だった。それから男の子はお茶碗と小皿を簡単に洗い、自分の部屋から着替えを取って風呂に入った。男の子は、風呂が嫌いだった。湯船には浸からずにシャワーだけを浴び、男の子は風呂から出た。洗面台の前で入念に歯を磨き、口を濯ぎ、綿棒二本と竹の耳かきで両耳を入念に掃除した。男の子は、きれい好きだった。それから男の子は、風呂場と洗面台と、リビングとキッチンの電気を消し、玄関へと続く狭い廊下の途中にある白い扉の前に立った。部屋の中では、銃撃音、爆撃音、命令口調のさまざまな音声などが絶えずとてつもない音量で流れていた。男の子は、扉をノックした。それから、返事を待たずに扉を開けた。男の子は部屋の中に入る。
「おやすみなさい」
 男の子は、この言葉が好きだ。