座間
下北沢の駅前の小綺麗で小さな居酒屋のテーブルの上に、俺が今朝食べたコーンフレークとそれにかけた牛乳を吐いてしまってもその人は取り乱したりはしなかった。わー、と口では言っていたけど、心の底から湧き出たような、あるいは動物的な反射から出たような類のわーではなかった。目の前の人間が前触れなく吐いた、そのことに対する社交辞令のような、時候の挨拶のようなわーだった。その人は店員を呼び、呼ぶ前から店員はこちらに向かっていた。大丈夫ですか、と店員。その声にかぶせるように、その人は、あ、お会計お願いします、と言い、あ、あとおしぼり3つもらってもいいですか、と言った。もらった3つのおしぼりのうち、1つはテーブル、1つは床、1つは俺の口元を拭くために使われ、テーブルは明らかに1つでは足りていない様子だったけど、あとは店員に任せることにして、俺とその人は店を出た。
俺とその人は小田急に乗った。経堂に、たまに行くバーがあって、そこに行ってもいいか、とその人。暗いし、狭いし、静か。それならあなたも大丈夫だろう、というようなことを言われ、狭いのはちょっと、とも思ったが俺はうんともううんとも聴こえる声でうんと応え、通じたのかもともと有無を言わさず連れていくつもりだったのか、その人も、うんともううんとも聴こえる声でうんと言ってすこし笑った。動き出してから、この電車が経堂を通過する快速急行であることにお互いが気づき、俺は電車で吐いてしまわないように神経を尖らせたり鈍麻させたりすることに精一杯でまともに話せないまま、つり革にしがみつくように立って、ただ床を見つめていた。その人は、登戸まで停まらない、と確認するようにつぶやいて、そこからはお互い、無言のまま、電車が登戸で停まるまでじっとしていた。
俺とその人は登戸で降りて、川へ向かった。夜の多摩川はしずかで、余計なものが見えなくて、それで俺は安心して、黙っていた。その人も黙っていたけど、それは俺が黙っていたからだったのかもしれない。しばらくそうしていると心に余裕ができてきて、さむいのかもしれない、と思えるようになった。俺はその人に、さむいですよね、と訊いた。その人は、さむいです、と言った。それで俺とその人は、駅前の焼鳥屋に入って、いくつかの串と、いくつかのお酒を注文した。俺は吐かなかった。その人は吐いたのかもしれない。トイレが長かった。トイレが長いだけなのかもしれなかった。
決めていたわけではなかったのに、俺とその人は同じ電車に乗って、座間まで行った。俺は座間に住んでいる。その人は方南町に住んでいる。だからつまり俺とその人は、俺の住むマンションへ向かっていた。駅前のローソンで俺もその人も煙草を2本吸って、俺もその人も話らしい話はしていない。ローソン、とその人は言った。タクシーを、と俺は言った。タクシーを呼んで、俺とその人は俺の住むマンションへ向かった。
俺の部屋に入ってもその人は取り乱したりはしなかった。ユニットバスが腐敗して使えない、用を足したかったらマンションを出て道路を挟んだ向かいにある業務用スーパーの仮設トイレまで行ってほしい、そう伝えてもその人は首を縦に振るだけだった。部屋の中央にそびえる顕微鏡にも、コタツの中にある大量の空き缶にも、コタツの上に置かれたアルコール漬けの月下美人の花にも、流れ続けている坂本龍一のアンビエントにもその人はなんのコメントもしなかった。俺とその人は並んでコタツに入って、それからすぐに、その人は眠った。俺は、その人の隣にいて、睡眠導入剤を飲もうか、このままここにいようか、考えていた。考えているうちに午前4時になって、俺はその人の肩を慎重に揺すった。朝から仕事がある、ということを、最初の居酒屋に入る前、きいたような気がした。時間だよ。俺のこと覚えてますか。何度か繰り返していると、覚えています、とその人は言って、目覚めた。眼を開けたまましばらく動かないでいるその人の写真を俺は撮って、だから俺のiPhoneのロック画面はそのとき撮った写真だ。ッウゥゲーム……。なかなか動き出さないその人がちいさくなにかを言って、うん?と俺が言うとその人はまたちいさな声で、ドッグゲームだ……。と言った。ドッグゲーム?と訊き返してもその人は応えてくれない。昨日会った人のことは、ほとんどの場合、今日も覚えている。そう言いながらその人は起き上がって、俺も起き上がって、俺とその人は夜があけそうな座間の道をゆっくり歩いて、そうして着いた座間駅の、改札の前で、すこし長めのハグをした。エマさん、また。Tinderに書いてあった名前が本名なのかどうかもわからないまま、俺はその名前を口にして、その人は、うんともううんとも聴こえる声でうんと言った。今度は笑っていなかった。駅前のローソンで煙草を2本吸って、マンションに歩いて帰るその途中、俺はその人に、一度もありがとうと言っていないことに気づく。