0034 落下

落下

 跳ぶより以前の記憶なんてとうになくしてしまった。
 母の股ぐらを取り囲む助産師や無影灯をくぐり抜け、壁を、窓ガラスをぶち破り、まだらな雲を一気に越えて、あたりが黒く染まっていったのまでは覚えている。そのころ、僕はまだ一〇歳だった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 人の声のようなものがきこえる。空気の、耳を擦る音がうるさすぎて、まったくききとれない。あたりを見渡すと、左後方(つまり、僕よりもすこしだけ高度のたかいところに)、僕と同じように空を落下し続けている人がいた。いつからいたのだろう。いつから落ちているのだろう。長い髪が一直線に、後ろへ後ろへ(上へ上へ)と伸びている。
 僕の髪も長い。母から出たときにはもう跳んでいたのだ。空中には床屋も駄菓子屋も、学校も市民プールもない。いつからか猛スピードで落下していて、跳んでいても落ちていても、もちろんひとりだった。
「こちら地球、こちら地球。きこえますか。どーぞ」
 母からの通信が、通信機と有線で繋がったイヤホンからきこえてきた。
「こっちも地球ですどーぞ」
「あー。あー。こちらは東京。東京都、えー、の、東京駅。季節は夏。現在の天候は晴れ。雲わずか。いま私は、京都駅の構内で買って、新幹線ではなんでか食べる気になれなかったワッフルを、中央線のホームでようやく取り出して、立ち食いしているところでありますどーぞ」
「あー。あー。こちらは地球上空。海面由来の青ばかり見えます。継続的に落下中。食料なし。寝具なし。娯楽なし。さきほど、後方に自分以外の人間を目視可能な距離にて確認どーぞ」
 一瞬の沈黙。
「あー。あー。それはいったいどういうことどーぞ」
「わからない。です。わからない。落下中の人間が、僕以外にもいるってこと。それ以外はわからない」
 母との通信を切って、からだを回転させて後ろ(上)を見た。その人間は、こっちを見ている。ように見える。落下スピードが僕よりわずかに遅いのか、さっきより距離が離れているように感じた。このままでは見えなくなってしまう。離れていってしまう。かもしれない。わからない。まともな会話はできないけれど、空中で初めて見た自分以外の人間だ。意思疎通を図ろうとしないまま、離れてしまうのは嫌だった。
「お〜〜〜〜〜い!!!!」
 その人間は、こっちを見ていた。見ているように見えた。
「〜〜〜〜!! 〜〜〜〜!!」
 向こうには、僕の言葉がきこえるのだろうか。
「なに言うてんのかわから〜〜〜〜〜〜ん!!!!」
「〜〜〜〜〜〜〜!! 〜〜!!」
「〜〜〜〜〜!!!?」
「〜〜!!」
 跳ぶ瞬間に視界をよぎった母や助産師、それ以外、それ以来、初めて生身の人間を見つけて、言葉として届かない言葉を聴き、言葉として届いているかわからない言葉を叫び、そして、そうしている間も、僕はその人間から遠ざかっていく。無性にさみしくなった。さみしいという感情を初めて実感した。
 僕は叫んだ。
「はじめまして〜〜〜〜〜ぇえ!!!!」
 次の瞬間、パラシュートを開いたみたいに、僕の落下スピードが突如スローになった。
 その人間が僕より先に落ちていく。
 長い髪の毛だけが、しぶとく僕の視界から消えずにいた。
 それ以来、誰とも会わずに、僕はいまだに落下し続けている。
 母の言葉を信じるならば、どうやら僕はもう、五〇歳になってしまったらしい。
 母は年々低く、粒度の荒くなっていく声で、今日も僕に、現在地を教えてくれる。
「愛だねどーぞ」
 その人間の話になると、母は決まってそう言う。
 いまとなっては確かめようがない。おそらく、もうあの人間に出会うことはないだろう。他の人間と出会うこともないだろう。ないと思う。わからない。わからないけれど、僕はきっと、この先もひとりだ。
 長い雲を抜け、眼前に再び広がる海面由来の青。そのはるか向こうに、緑色に輝く大陸が見えた。
「母さん。母さんは、いまどこにいる?」