0003 たましい

たましい

 稲盛総一朗が都内の私立高校に合格した翌日、神が死んだ。神の死骸は第一発見者の総一朗によって水槽から掬い出され、そのまま総一朗の手によって近所の公園の生け垣にうやうやしく埋葬された。日付けが変わるすこし前に父が仕事から帰ると、総一朗は作り置きのクラムチャウダーを温め、お茶碗にご飯を控えめによそい、冷蔵庫からキリンラガーのロング缶を取り出してテーブルに置いた。神ちゃん死んだか。総一朗は黙ってうなずいた。もともと数日前から常軌を逸した体勢で水中をゆらり漂っていたような奴だ。いつ事切れてもおかしくはなかった。捨てるか、水槽。総一朗は黙ってうなずいた。そろそろ歯ぁ磨いて寝ろよ。そう言って、父はクラムチャウダーをすすった。総一朗は黙ってうなずいて、足を擦るようにして洗面所へ向かった。洗面所の電気をつけて、鏡に総一朗の顔が映って、総一朗はその顔を見た。見ながら歯を磨いた。歯を磨いて眠った。
 社会人十年目の冬、総一朗は高校の同窓会に出席した。北海道夕張市でハローワークの職員として働きはじめ、東京都内の実家とも、高校や大学の同窓生とも距離を置き、誰にも居場所を教えることなくこの地に浅い根を張った総一朗にとって、それは届くはずのない招待状だった。消印は掠れていて、文字を判別することができない。切手も、記念切手やキャラクターものではない一般的なもので、送り主の素性を探る手がかりにはならなかった。吐く息が白い。雪を被った山肌が白い。招待状の白。高校の制服、シャツの白色。いま総一朗が着ているスーツの、その中のワイシャツの白。夕張での静かな数ヶ月を経て、無機質な招待状を手に、探偵のような気持ちで総一朗は飛行機に乗る。座席に深く座って瞼を閉じ、眠りに落ちる寸前、総一朗は兄と母のことを思い出していた。マザコン、親バカ、そういったものとはまた違った意味で兄と母は異様に仲が良かった。二人は常に一緒で、というか二人は常に二人だった。二人で眠り、二人で遊び、二人で帰り、二人で笑い、二人で怒り、二人で学び、二人で歩いた。そして気がつくと二人は二人で総一朗の前から消えていた。二人で飼い、二人で「神」と名付けたウーパールーパーを残して。総一朗が瞼を開けると飛行機はすでに着陸態勢をとっていた。大学での四年間。高校での三年間。そしてそれ以前の記憶は、総一朗にとって雪のようなものだった。いつの間にか積もり、いつの間にか溶ける。降れば積もり、暖かくなれば溶けることは知っているのに、その過程を知らない、見たことがない。知っているのに、知らない記憶。おぼつかない足元、一面の雪原。遠くに立つ、兄と母。総一朗の頭の中で、兄と母の不在と、不在によって漂う色濃い気配が、記憶の端々で総一朗の回想を邪魔するのだった。
 かつて確かに友達だった人、先生だった人、好きだった人、好きになってくれた人の顔が、記憶の中で溶け、兄と母の顔に変わり、友達だったかもしれない、先生だったかもしれない、好きだったかもしれない、好きになってくれたかもしれない人になっていく。雪解け。再びあらわれる山肌。総一朗は眠気に逆らうように立ち上がり、スーツケースを取り出して、一段、また一段とタラップを踏みしめて羽田空港へと降りていく。