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2026年7月

2026年7月


6〜7月に読んでいたもの
島田潤一郎『あしたから出版社』(筑摩書房)
江藤健太郎、海猫沢めろん『ひとり出版流通攻略ガイド』(タコシェ)
オオヤミノル『喫茶店のディスクール』(誠光社)
松木いっか『日本三國』5〜7巻(小学館)
エヴァン・ダーラ(訳:木原善彦)『失われたスクラップブック』(幻戯書房)
福尾匠『ひとごと ──クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社)
更地郊『粉瘤息子都落ち択』(集英社)
町屋良平『生活』(新潮社)
松田いりの『ハイパーたいくつ』(河出書房新社)
能地克宜『犀星という仮構』(森話社)
遠野遥『改良』(河出書房新社)

6〜7月に見ていたもの
宮崎智之×柿内正午×横田祐美子『随筆批評はなぜ可能なのか?』(UNITÉ)
(以下すべてシラス)
千葉雅也×荘子it×福尾匠『勉強、センス、そして哲学──「シットとシッポ」特別篇』
安藤礼二×石橋直樹×東浩紀『日本とはなにか──空海、篤胤、折口』
箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈)『正気とはなにか』
石橋直樹×植田将暉(+伏見瞬+東浩紀)『国学ルネッサンスとはなにか──Z世代と日本論の再構築』
斎藤幸平×東浩紀『資本主義は本当に変わるのか』
林凌×山本浩貴×植田将暉『瀬戸内海とはなにか──批評・文学・日本の未来は〈四国〉にある』
大島育宙×山内萌×植田将暉『言語化時代をどう生き残るか ──推し、身体、そして感想』
高橋久美子×伏見瞬『音楽にとって言葉とはなにか——チャットモンチーと歌詞と散文』
柴那典×伏見瞬×佐々木敦『令和はJ-POP黄金期である──音楽批評の現在地』
東浩紀×大澤聡『『平和と愚かさ』はなぜ生まれたか——文芸批評を超えて【ゲンロンカフェ出張版@福岡】』
小川哲×樋口恭介×東浩紀『SF作家、哲学と遭遇する2.0』
伊沢拓司×小川哲×徳久倫康(+田村正資)『クイズはいかにして「文化」となったか ──『君のクイズ』映画化&『クイズの戦後史』刊行記念』


7月1日(水)

今日はMさんの家に行く予定だったのだけど、キャンセルして家にいた。喉の調子がおかしいが、寝たら治る感じもする。

一昨日収録した「正気じゃない夜に語りたい」を一気に編集してしまう。書き出したデータをふたりに共有して、今日はもう、それくらい。

性別移行を開始してから10年以上経ったんだなとふと思った。さすがにそれくらいの年月が経つと、いわゆる”男体”として生きていたころの身体感覚や情緒や生理現象のことを段々と思い出せなくなってくるというか、他者に対する想像と大差ないレベルになってくる。

たとえば勃起という現象を自分がどんなふうに自身の生理現象として知覚してきたかをもうわたしはあんまり思い出せない。いや、思い出せはする。記憶としてそれはある。が、鳥肌が立ったときの皮膚感覚や足がつったときの身体感覚のように鮮明には脳内で再生/再現されない。

アゴや足にびっしり毛が生えていたときの感覚も、もうほとんど思い出せない。肉体はあっという間に変化に適応する。追いつけないのは記憶だ。肉体に追いつけない記憶はやがて類推/推測/考察に近づいていく。

恋人と接していて彼なりの男性性のようなものを目の当たりにすると「男って、そうだったっけ」と思ったり「男の人って、そうなんだ」と思ったりする。自分のなかの/自分が経験してきた”男”とすこし違うぞ、と思うのと同時に、わたしは思っているより”男”を知らない(忘れた)のかもしれないぞと思う。

他人のような自分が記憶のなかにいて、その記憶はいよいよ他人の顔をし始めている。恋人がわたしの子供時代の話を聞くとき、彼の頭のなかでわたしは少女として生成されているのか、それとも少年なのか。

少年だった/男体だった自分のこともちゃんと肯定したいし、男性性を過度に否定せずそのころのことを楽しかった記憶として持ち続けたい人でもあるが、恋人といると自分が経験したことのない/発露したことのない「少女だった(として)」の自分が自然に出つつ少年も時折顔を出すので良い意味で忙しい。

だからテレビ等で度々行われる「トランスジェンダー女性(あるいはその”同類”と見做されうるカテゴリの人たち)を過度に男性として扱ったり男性の気持ちを代弁させる存在に仕立てる」展開やいじり、そしてそういう文脈を内面化させた個人やグループや企業のSNS発信を見ると、無理すんなよ〜と思う。記憶は思ったより肉体(的な実感)から遠ざかる。もうわたしは男性の気持ちがわからない(年々遠ざかっていく)し、かといって(シスジェンダー)女性の気持ちがわかるわけでも多分ない(それでも年々、男性よりは近しく想像しやすくなっている)。

こういうバランスというか機微は、世間一般のトランス女性(や、同類と見做される存在たち)のイメージと乖離しているかもしれない。

8〜9年くらい前、某大手出版社の編集者にその頃書いた中編小説(ショートスパンコールの元になった小説)を読んでもらい、喫茶店で会って話したことがあり、そのとき話の流れで「男の気持ちも女の気持ちもわかるのはあなたの明確な強みですよ」というようなことを言われたのだけど、よくある誤解だなといまならわかる。男性の気持ちも女性の気持ちもわたしには遠い。そして、男性的な実感は年々遠くなる。けれど女性として生きている。

というか、トランスジェンダーにはシスジェンダーの機微や感情を分かってもらえている(トランス女性は男の気持ちを/トランス男性は女の気持ちを、理解している)と思い込み、それでいてシスジェンダーはトランスにシス側の欲望や都合を勝手に投影していることがほとんどで、勝手だよな〜と思う。シス男性にもシス女性にも「理解してくれている」と思うことはないし深く共鳴することもない。そう言うと現状「ノンバイナリー」とか「Xジェンダー」寄りなのかと勘違いされることもあるけれど、わたしはわたしとして女性であるつもりで、それをスパッと説明する言葉があまりないなと思う。恋人が(こういう話題/文脈において)本当にすごいのは「(あなたは知らないと思うけど)男って”そう”なんだよ」というようなことを素で/本気で/自然に言ってくるところで。わたしの肉体的な性質や普段の言動を知ったうえでそんな態度を取ってくる人はいままでいなかった。

部屋着から着替えてスーパーへ。HからLINEが来て電話したいというのでこれから買い物に行くけどその道中でいいのならと返信。すぐにかかってきて、通話しながら家を出てスーパーで買い物をして帰宅して料理をした。恋人の実家でもらった大量の野菜をまとめて料理してしまう。山形だしとポテトサラダが出来た。とんかつ用の豚肉は細切りにして片栗粉・醤油・酒・砂糖で揉んでおく。青椒肉絲にしようと思ったけどもう深夜で眠いから揉んでおくだけ。Hは推しの配信があるとのことで山形だしを作っている最中で通話が切れた。

7月2日(木)

寝不足。

シラスのゲンロン完全中継チャンネルの月額会員になった。なってしまった。ばか。数ヶ月前に数年ぶりに入り直したNetflixを再度停止させた。北國新聞の購読もどうしようかなあ。引っ越しもあるし一旦やめてしまってもいいのかもしれない。ただでさえ最近まともに読めていない。

バイト、働く。今日は暇。暇だけど眠い。寝不足だから。どうしたもんか。

AセクシャルとAロマンティックについてたまに考える。今日も考えていた。

Aセクシャル・Aロマンティックでパイプカット手術や去睾手術、ミレーナ装着や子宮摘出、乳房摘出をした人(したい人)はどれくらいいるのだろう。AセクAロマ(どちらかと言うとAセク)に対して「オペをしない/したいと思わない人が多そうに感じるのは何故だろう」と思ってしまうのは、わたしがある種オペ前提のジェンダーマイノリティとして生きているからで。「他者に性的な惹かれを感じない」「他者に恋愛感情を抱かない」という点よりも「どうやら外科処置でそれを肉体的に達成しようとは思わないらしい」ことがいまいち理解できていない。まあ、逆に、外科処置で性違和をどうにかしようとする人のほうが少数で、意味不明だと思われているのかもしれないが。

わたしはたとえばゼノジェンダーを自認する人に対しても「どうやら外科処置でそれを肉体的に達成しようとは思わないらしい」ことが理解できない。正直言って同じマイノリティの括りで語られると心理的抵抗がある。

Aセク・Aロマという性的・恋愛的指向を持つ人と、身体の妊孕性/性徴/生殖機能/性的に解釈されうる部位に違和を持つ人は重なり合っていないのだろうか。ふたつは別の話なんだろうか。

自身の性の”社会的な扱われ方”という観点がわたしは実感として全然しっくり来ていないんだろうなあと思う。身体と性はわたしのなかで絶対の結びつきを成していて、そこに社会が入る余地があまり無い。やや飛躍するけどだから「なぜオペをしないんだろう」と思う。

性は性でしかなくそこに紐づくのはどこまでも卑近な自己/肉体/身体でしかなく、わたしはそれらを比喩にできない/社会的な扱われが理解できないのだろうな。だからわたしはこのように生きている。理解できないというか、社会的な扱われ/社会的な性というものを全然信じていないんだろうなと思った。社会にはほんとうに無数にひとがいて、無数の価値観がある。そのなかで社会的な扱われ/性をどうにかすることなんてほぼ不可能で。だったら肉体/身体をどうにかするしかないでしょう、という。

うーん。いや。社会的な性を信じていないというより、社会的な扱われを”自分の側から満足に制御できるもの”として信じてはいない。のか。だから自分にとって性の問題は結局、身体という処置可能で不可逆的で卑近な場所に戻ってくる。

Aセクシャル・Aロマンティックへの疑問が「なぜ自分は性を身体改変の問題としてしか、あるいは身体を経由することでしか考えられないのか」に跳ね返ってきた。

ここらへんでGPTに壁打ちしてみると、あなたが直面しているのは「誤認」でAセクやAロマの人が直面しているのは「誤解」なのだと返ってきた。「誤解」は解く/説く可能性に開かれているが「誤認」はそれより手前で(システムや視認情報等によって)認識されてしまうものなので抜本的に改変しない限り(肉体的な情報等を改変しない限り)どうしようもない、と。たしかにそうかもしれない。

ただ、わたしはやはりそれでも(というよりだからこそ、かもしれないが)AセクやAロマの人々は根本で社会のことを信頼しているなあと感じてしまう。恋愛・性愛・結婚・家族形成を当然視する社会への不信感や疲弊はあるんだとは思うが、すくなくともそこから「じゃあ肉体を操作するしかないな」という発想にはなかなか至らない。それでいてSNSでの発信や書き手としての発信(AセクAロマに関する/当事者による書籍の刊行等)は昨今盛んに行われている。広い意味で社会を信じているんだなーというふうにわたしの目には映る。

べつに、肉体を改変するやつが偉いわけでもない。すごいわけでもないし。「真の」マイノリティだなんて言うつもりはまったくない。ないが、”そうなんだな”とは思う。自分の感覚とのギャップにくらくらすることはある。人を(人の作り出す概念や認識を/社会を。また、自身に矛先の向いたそれら視線を言葉や概念のみで操作できるという可能性を)すごく信じているなあと思う。それは、わたしには無い感覚だ。肉体の情報を変える以外に方法なんて無い。としか思えない。どうしても。

まあこれは性違和の有無の問題なんだろうな。AセクAロマは多くの場合性違和ではないということなのだろう。

思えば半年間くらい(もっとかもしれない)AセクやAロマに関する疑問を抱き続けていたわけだけど、ここにきてその疑問が自分自身に跳ね返ってきた感がある。つまりわたしは人のことも社会のことも広い意味で信じていないわけだ。そして人や社会からの視線を言葉や概念の操作だけでどうにかできるとも思っていない。肉体が解決する/肉体でしか解決できないと思っている。この思いを覆すことはなかなかむずかしいだろう。わたしのなかのトランスとしての部分が猛烈に支持しているから。

クチロロの全体連絡が来る。3曲すべてのMixが終わり、情報解禁日が決まったらしい。めでたい。三浦さんおつかれさまです。

共有されたデータを確認する。いいジャケットだなあ。そして3曲ともかっこいい。良い曲だなあ。Weなんだなぁという気持ち。音楽だ。

ジャケットを見ながら完成版の音源を聴いていたら「わたしのWeへの拒絶感は正しいものだったのだろうか」というしょうもない思いに駆られる。「We See The Light」の歌詞に悶々としてひとり勝手に「I see the light」(not動員ver)を作って、歌って、録って、共有したわけだけど、ほとんどすべての音楽はそもそもがWeの気分を内包しているわけで、わたしのこの感情はなにかこう、音楽に向き合う姿勢として根本から間違っているのかもしれない。わからない。けれど。……。

音と気分、音楽と歌詞、曲と意味。音楽はずるい。

リズムはずるい。ハーモニーはずるい。メロディはずるい。

リズム・ハーモニー・メロディに共鳴する身体と、歌詞・言葉・意味に共鳴できない心、という状況に置かれたとき、人はどうしたらいいのだろうか。これまであまり考えたことがなかった。ノッてる身体とノれない心が共存しているとき、人は。それに向き合った6月だった。と言うにはあまりにも大袈裟かもしれないが。

青椒肉絲を作り、食べ、カミーユさんと古本さんのメールに返信。短歌教室もショートスパンコールもクチロロも動く年だな。

7月3日(金)

金曜日にバイトが無いのはめずらしい。今後数カ月は変則的なシフトが続く。

だらっだらしてしまう。だらっと。

短歌教室、ショートスパンコール、『ホームページ』の販促企画、ポッドキャスト、恋人の工房ウェブサイト構築、メルマガ、引っ越しの検討。いま抱えていることを書き出してみる。パンクしそうだ。というかすでにパンク気味で、目の下のくまがやばい。ずっと寝不足であぶない感じがする。タイムスケジュールを組んでいるのにうまく従えない。どうしたらいい。

本も読みたい。

「正気じゃない夜に語りたい」配信。

ここ2か月ほど「(  )のホームページ」の参加依頼を誰にも送っていなかったが、そろそろまた依頼をかけていきますか……と、まずは依頼書とメール文雛形のブラッシュアップから始めることにする。細かな文言を整備していき、要所要所を依頼相手に対して易しい内容に差し替えていく。失礼な依頼だよなと思う。失礼なのだから出来うる限り最大限、慇懃でありたい。リスペクトを込めたい。その後、メール文を考えて2名に依頼を送った。無視されませんように。いや、無視されてもいいけれど相手の気分を害しませんように。

ついついスマブラをしてしまいますね。

出版社さりげなくのことを思い出してしまい情緒が荒れそうになったので、というか荒れたので、夜、スーパーで見かけて買っていた麻辣湯を食べる。シラスのゲンロン完全中継チャンネルの月額会員になると無限に見るものがあるのでついつい再生して無限に見てしまう。おもろい。が、危険だ。風呂に入らないといけないし、寝ないと。

7月4日(土)

寝坊したが気合いで定時に出勤。寝不足でやばい。朦朧としながら働くが、まともに働けていない気がするまま退勤。ボロボロの状態で、恋人から連絡があり迎えに来てくれることになった。車に乗ってぐったりしていたら、恋人の身辺の大変すぎる話を聞いて目がすこし冴えた。大変すぎて頭がしゃきっとした。

帰宅し、恋人も寝不足のようだった。遅いお昼ご飯の支度をして、食べ終えるころには布団で爆睡していた恋人の隣に横たわり、ふたりしてカーッと寝る。5時半ごろに目覚め、恋人を起こすと「4時45分にアラームセットしたのに、、!!」と慌てながら起床。ふたりして恋人のスマホ画面(アラーム)を眺め「あ、……これ午前4時だね」とわたしが言って、しばらくお互い「……w」「……ww」みたいな笑い方をした。寝ぼけすぎている恋人が「行ってきます」と言い残し帰宅。行ってらっしゃい。

松田いりの『ハイパーたいくつ』を40ページほど読み、町屋良平『生活』の続きをちびっと読んだ。「愛」の字の描写で、そういえばここら辺までを連載で読んでいて、わたしも「愛」という字をよく書いていたなと思い出した。たしかに愛は難しい字だった。

そろそろ連載で追えていない箇所に突入する。鬱状態が極まってきて本を読めなくなっていたころだ。

今週の人文ウォッチを観る。植田さんが三宅香帆の炎上について「擁護する奴は100%キモいし批判する奴も100%キモい」と言っていて、せやな……と思った。わたしも大概キモかった(と自己弁明のように書くのもなんか違う気がするけど)。モノマネ騒動からの今回の件で「ええかげんにせえ」と思っちゃったんだよなあ、馬鹿め。黙ってりゃいいものを。

7月5日(日)