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2026年6月

2026年6月


6〜7月に読んでいたもの
島田潤一郎『あしたから出版社』(筑摩書房)
江藤健太郎、海猫沢めろん『ひとり出版流通攻略ガイド』(タコシェ)
オオヤミノル『喫茶店のディスクール』(誠光社)
松木いっか『日本三國』5〜7巻(小学館)
エヴァン・ダーラ(訳:木原善彦)『失われたスクラップブック』(幻戯書房)
福尾匠『ひとごと ──クリティカル・エッセイズ』(河出書房新社)
更地郊『粉瘤息子都落ち択』(集英社)
町屋良平『生活』(新潮社)
松田いりの『ハイパーたいくつ』(河出書房新社)
能地克宜『犀星という仮構』(森話社)
遠野遥『改良』(河出書房新社)

6〜7月に見ていたもの
宮崎智之×柿内正午×横田祐美子『随筆批評はなぜ可能なのか?』(UNITÉ)
(以下すべてシラス)
千葉雅也×荘子it×福尾匠『勉強、センス、そして哲学──「シットとシッポ」特別篇』
安藤礼二×石橋直樹×東浩紀『日本とはなにか──空海、篤胤、折口』
箕輪厚介×東浩紀×植田将暉(+黒岩里奈)『正気とはなにか』
石橋直樹×植田将暉(+伏見瞬+東浩紀)『国学ルネッサンスとはなにか──Z世代と日本論の再構築』
斎藤幸平×東浩紀『資本主義は本当に変わるのか』
林凌×山本浩貴×植田将暉『瀬戸内海とはなにか──批評・文学・日本の未来は〈四国〉にある』
大島育宙×山内萌×植田将暉『言語化時代をどう生き残るか ──推し、身体、そして感想』
高橋久美子×伏見瞬『音楽にとって言葉とはなにか——チャットモンチーと歌詞と散文』
柴那典×伏見瞬×佐々木敦『令和はJ-POP黄金期である──音楽批評の現在地』
東浩紀×大澤聡『『平和と愚かさ』はなぜ生まれたか——文芸批評を超えて【ゲンロンカフェ出張版@福岡】』
小川哲×樋口恭介×東浩紀『SF作家、哲学と遭遇する2.0』
伊沢拓司×小川哲×徳久倫康(+田村正資)『クイズはいかにして「文化」となったか ──『君のクイズ』映画化&『クイズの戦後史』刊行記念』


6月1日(月)

今日は金沢に数日滞在していた大学時代の友人と数年ぶりに会う予定だったのだけど、昨晩、友人の家が大火事になったとのことで、急遽朝イチの新幹線で友人は帰ることになった。「明日どこで会おうね」とメッセージを送り合っているときに友人から通話がかかってきて、出るとパニックになった友人が「東京の家が、いま、燃えているらしい」とのことで、ひとしきり話を聞いて、落ち着かせ、なんならへらへら笑いながら話を聞き、とにかく気をつけて帰るんだよ、あ、最後にひとつだけ、金沢駅のセブンイレブンの隣にあるおにぎり屋さんのおにぎりはなかなか美味しいから、明日の朝はそれを買って、せめておいしいおにぎりを食べて帰りな、と伝えた。なので急にぽっかり予定が空いてしまった。それにしても、こんなことってあるんだな。

他人の深刻な話に深刻な顔をして聞くことがわたしにはできない。いつもへらへら、受け流すように聞いてしまう。なんならずっとにやにやしている。でもそれがわたしなりの誠実さだったりもする。そうだと思いたい。わたしが話す立場だったらそういうふうに聞いてほしいし。

詩人・デザイナー・編集者の山腰亮介さんが『ホームページ』販促企画である「(  )のホームページ」の山内優花の作品およびページに対してSNSで言及していてびっくり&うれしい。ありがたい話だ。それだけを糧とするにはあまりにもリスキーだが、だれかに言及されるとそれだけで活力になる。わたしは何も大したことしてないよと自分の制作にまつわる何に対しても思ってしまうが、そういう態度を踏みとどまって虚勢だろうが堂々とすることも大切。大切だけどなかなか毎度はむずかしい。でも。

6月2日(火)

「名は窓辺」という短歌連作を推敲し、仕上げる。

短歌の作り方ってなんなんだろうなと作るたびに思う。小説もそうだけど。短歌教室をわたしが請け負うとして、わたしに言えること、話せることってなんなんだろう。なんだかなにもかも自信がなくなっている、が、自信なんて自分自身で練り上げるもんだ。練り上げねば。メルマガのエッセイパートも書いていく。

ショートスパンコールを出していくための出版レーベルを立ち上げるにあたって、屋号を室生犀星や萩原朔太郎が作っていた同人誌名である「卓上噴水」にしようと思っているのだが、室生犀星記念館になにか連絡を取ったほうがいいのだろうか、取ったほうがいいとしてそれはどのタイミングで?と悩み続けている。通すべき義理や礼儀はそこにあるのだろうか。あるとしてそれはいつ、どのように通すべきなのだろうか。あるいは考えすぎだろうか。誌名に著作権はないとはいえ、むずかしい。そこらへん誰かに意見を聞きたいが、誰だ、それは。

夜、数年ぶりに□□□の全体連絡が来て「……!?」と思いながら開く。ついに新曲を出すらしい。それも3曲。しかも我々契約社員はそれぞれの環境で各自歌録りをしてね(参加は自由だよ)との由。おおお。や、……や、やります。

デモ音源を聴く。いい曲だな、と思う。思いながら、別のことも考えている。

6月3日(水)

「My friend is not dead.」書き終え、流し込み、配信。5月末に配信したかったのだけど間に合わなかった。最近なにもかも後手後手になっている。文フリ遠征の疲れがぜんぜん取れない。生活リズムが終わっていて危険。

夕方は「正気じゃない夜に語りたい」の収録。カルチャー・人文・教養系のPodcastやら各種配信やらを聴いていると自分の番組に対して「こんなに中身のないことばかり配信していて大丈夫なのか/コンテンツとして価値があるのか」と何度も思ってしまい、毎度「いやいや」と頭から振り払いつつ編集・配信している。エコーチェンバーの外に出たい。外に出ることだけが大事なわけではないにせよ、外に。

6月4日(木)

暗い気持ちになっている。なぜか。ふふ、わからんね。

出勤。バイト先のゴミ袋が発注先からなかなか来ない、という話になる。ナフサか、と思う。宿泊業界もナフサから逃れられない。

観光・宿泊はそもそも環境に悪い(とか言い始めると人間の活動全般がそもそも環境に悪い、みたいな話になってくるのだが)。徒歩で行脚しない限り、人が移動するには燃料がいる。いや徒歩であったとしても行く先々でさまざまな燃料の恩恵を受けることにはなるだろう。それはともかく。

ホテルとはつまり1日ないし数日間の入居と退去を繰り返すアパート/マンションだ。清掃員やフロントはそのアパート/マンション常駐のコンシェルジュということになる(余談だが東京で富裕層向けの超高級マンションの日常清掃の仕事をしていたことがあり、そうかこれくらいのグレードのマンションともなるとコンシェルジュと警備員がホテルのように常駐しているのだなと感心した。住空間はお金をかければかけるほど限りなくホテルへと近づいていく。ホテルとは住居のある種の極地なのかもしれない)。自分自身のこれまでを考えると容易く想像がつくが、入退去には大量のゴミとその処理コストが発生する。ホテルは毎日それに追われているわけだ。

それにしてもわたしは清掃の仕事ばかりしている。それ以外の仕事もそれなりにやってきたとはいえ。京都に住んでいたころは比較的富裕層向けの会員制高級ホテルの清掃業に従事していた。

ホテルのグレードが上がるとゴミ処理のグレードも上がる。どういうことかというと、ゴミがしばらくホテル内に保管されることになる/ゴミを保管するための収集所兼倉庫がある。「大切なものをゴミ箱に入れてしまったかもしれない」といったお客様からの要望に応えるためだ。ごみ処理もホスピタリティの一部、というわけ。わたしが働いていたそのホテルでは客室清掃時に回収した各部屋のゴミ袋には清掃員によってマジックで日付と客室番号が書かれ、縛られ、収集所兼倉庫に数日間保管される。ほんとうに処分されるのは数日経った後だ。

住居はある種の極地に至るとホテルに近づき、少子高齢化によってホテルは老人ホームに近づく。すべての住居は潜在的にホテルであり老人ホームだ。

AIに対してわたしはそれなりに迎合的な立場を取っているし普段から使用してもいるが、AIによって仕事がなくなる、仕事をしなくて済むようになる、といった言説をまともに聞く気になれないのは、わたしがずっとある種の肉体労働/清掃業に従事してきたからだろう。清掃がAIにとって代わるとは思えないし、清掃業がなくなる/人間が清掃業からいなくなる未来を想像できない。DX/リモート化もそんなに称揚する気になれない。肉体が現場にいる、という重要性に勝るものはないし肉体が現場にいるという価値に代わるものもない。こと肉体労働においては。

自動運転車が事故を起こした場合、責任の所在はどこにあるのか。といった話題もホテルの清掃に当てはめて考えることができる。客室清掃においてむずかしいのは、部屋に置かれているものに対しての「これはゴミなのか、忘れ物なのか」という判断だ。ステイ清掃(連泊部屋の清掃)の場合はたとえば明らかにゴミを置く場所に中身の入ったペットボトルが置かれていたときの「これはゴミなのか、いま使っているものなのか」という判断など。AI(を搭載したお掃除ロボット)がその判断を誤り、まだ捨ててはいけないものを「これはゴミ」と判断し、処分した際、責任は誰が負うのか。肉体とはつまり責任の所在だ。そしてリモート業務はその責任の所在をどこまでも有耶無耶にしていく。リモート業務をするとき、業務がDX化されたとき、どこかで誰かがツケを払い続け、アクを取り除き続けている。それすらだんだん見えなくなってくる。

6月5日(金)