柿内正午「随筆時評」(『随風03』所収)への私的応答
志学社の文芸レーベル・書肆imasu刊行の随筆雑誌『随風』第3号所収、柿内正午による批評連載「随筆時評」にて、拙著『ホームページ』が取り上げられました。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909868237
https://thebooks.jp/books/006/
取り上げられただけでもじゅうぶんにありがたいのですが、第三号の「随筆時評」内で柿内さんはかなりの紙幅を割いて拙著について言及しており、またその論旨も明快で、とても楽しく/面白く拝読しました。さまざまな人に読まれてほしいです。
以下に書くことは、「随筆時評」への私的応答です(”私的”応答ってなんだかへんな言葉かもしれないけれど、とはいえこれは内容やテンション的にあまりにも私的な応答だなと思ったので、そう書きます)。そしておそらくこれはストレートな応答にはならない/なっていないような気がしています。『ホームページ』および所収作品群があのような形になった経緯や動機、さまざまな些事を繋ぎ合わせ、先日行われた2本のトークイベントの内容も含めて改めて語り直すことによって、それが回り回って柿内さんへの応答になれば(応答へとトランスしていければ)、という思いで書き繋いでいきます。
目次
自主制作映画『エイプリル』
手始めに/手探りで、高校3年生のときに制作した自主制作映画『エイプリル』のあらすじを説明するところから始めようと思います。
主人公はとある高校の映画部に所属する高校2年生(A)。文化祭で上映するための映画を制作するための会議で、Aは映画部部長(D)が作ったクジを引きます。クジには映画のジャンル名が書かれていて、部員はそこに書かれたジャンルの映画を撮ることが部の習わしになっていました。Aが引いたのは「恋愛もの」。しかし恋愛経験がなく、恋愛についての意欲も特になく興味がないAは脚本作りに日々悩みます。そんな様子を家で見ていたAの弟(B)は、ある日Aを日課のランニングに誘います。BはAと同じ高校に通う1年生。ランニング終わりの公園のベンチで、Bは自身がゲイであること、Aの同級生であり映画部に所属するCのことが好きであること、しかしそれが叶わぬ恋であるとわかりきっていて、だからこそフィクションのなかで告白をしたいのだ……要するに「おれとCの恋愛映画を撮ってくれ、脚本はおれが代わりに書く」という提案をAにもちかけます。Aはこれを快諾し、Bが書いた脚本を使ってBとCの恋愛映画を撮影していく。その撮影のさなかにもさまざまなすったもんだがあり、映画はなんとか完成。焼き上がったディスクを手にAが部室に行くとそこにはBもCもDもいて、クラッカーが鳴り、「ドッキリ大成功!」という看板が掲げられる。
Cが引いたクジは「モキュメンタリー」でした。Cは考えた末に、Aが「恋愛もの」を引くようにクジに細工をしていたのです。Bの協力により、Aの部屋やランニングコース、Aの映画の撮影現場には隠しカメラが設置されていました。Bのカミングアウトからの代筆提案、(すべてが嘘でできた)恋愛模様のあれこれを繋ぎ合わせ、AはCによるモキュメンタリー映画の主人公になっていたんですね。すべての種明かしが終わり、シーンは一気に1年後に移ります。部長になったAは、1年前のDのように部を仕切っています。文化祭のための映画を今年も撮ることになっている。毎年この部ではクジを引いて映画のジャンルを決めることになっている。「さあ、次はお前の番だ、新入部員」。カメラ目線でそう言うAのカットで映画は終わります(ちなみにAはわたしが演じました)。
ヒントになったのは、制作当時映画館で上映されていた『パラノーマル・アクティビティ』でした。極めて低予算で撮られたこの映画は、映画全編が監督の自宅で撮影され、撮影日程も7日間。機材もたしかハンディカム一本で、編集作業も監督のパソコンで行われたと記憶しています。わたしはこの映画を観てとても勇気づけられ、「そうか、すべてを逆手に取るという方法だって、あるんだな」と明るい気持ちになったのをよく覚えています。
すべてを逆手に取るとはどういうことか。そもそもわたしは帰宅部で、高校には映画部自体ありませんでした。別の高校に通っていた幼馴染が「映画撮りたいから、脚本書いてよ」とわたしに持ちかけ、中学時代の元クラスメイトや、インターネットで出会った北海道出身の学生(販促企画に参加してくださった森崎よしこさんのことです)に声をかけて実現した座組です。全員違う学校の生徒で、住む場所もばらばら、全員が演技経験にも乏しい。撮影班に人員も割けない。そのすべてを逆手に取ろう/取れると思いました。不親切な画角は”隠しカメラ”ゆえ、不出来な演技は”高校生が必死に演じるドッキリ/モキュメンタリー”ゆえ。そのような建付けを利用すれば、我々のスキルが足りていなければ足りていないほど、逆にクオリティが上がります。下手くそであればあるほど、本当らしくなる。
(ばらばらの場所に住む状況のなか、絵コンテや脚本の受け渡しにも当時らしい工夫?が凝らされていました。上野だか品川だか忘れてしまいましたが、駅ナカにある書店の適当な平積み棚を決め、「地図コーナーの『◯◯◯◯』って平積み本の一番下に絵コンテ置いといた」「あった!回収完了!!」というやりとりをメールやSkypeで行っていたり……。いやいやSkype使えるならSkypeでPDFを送れよって感じですが、そのときはなにか急を要していたのでしょう。そういう工夫や不便を当時なりに楽しんでいた記憶があります)
それと、当時のわたしは自分がゲイなのか、バイなのか、トランスジェンダーなのか、それともすべてが単なる思い込みなのか、なんなのか、よくわからなくなっていた。セクシャリティもジェンダーも揺れ動いていて、なにがなんだかわからなくなっていた。この脚本には当時のわたしの「全部うそ/ドッキリだったらいいのに」という思いも反映されているのでしょう。脚本はBがAにゲイであることをカミングアウトし、BとCの恋愛映画を撮る段階で行き詰まっていました。あのときたまたま『パラノーマル・アクティビティ』を観たから、すべてを逆手に取ろうと思いついたから、この映画は形になった。形になってしまったとも言えるかもしれません。ほんとうは全部、うそ/ドッキリにするべきではなかったのかもしれない。Bの気持ちをドッキリにせず、恋をうそにせず、誰も騙さず、ちゃんと形にすることはできたんじゃないか。その場合、『エイプリル』はもっとずっと酷い出来になっていたでしょう。最低のクオリティになったはずです。過去の栄光すぎて書くのも恥ずかしいですが、『エイプリル』は結果的に高校生映画甲子園で最優秀脚本賞をいただきました。審査担当の脚本家・渋谷悠さんがわたしの席まで来て熱心かつ個人的に講評してくださったこともよく覚えています(わたしはそのときただただ呆然としていて、席から立てずにいました)。まっすぐな恋愛映画として『エイプリル』の脚本をつくっていたら、あの時間すべてが無かったことになっていたはずです。けれど、そっちのほうがよかったんじゃないか。なにが正解だったんだろう。ちゃんとクソ映画を撮ったほうがよかったんじゃないか。
『静止と乱視』
わたしは京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)文芸表現学科クリエイティブ・ライティングコースの出身です。えー、うそ、自己紹介?まじ?長いうえに耳慣れない学科/コース名ですが、要は「小説を始めとするさまざまな文芸表現を書き・読み・編むためのスキルを習得する」ための学科です。年次によって微妙に規定は変わりますが卒業制作はざっくり分けて小説・エッセイ・評論のうちのどれかを選択する必要があり、わたしは『静止と乱視』という100枚ほどの小説を制作/発表しました。
『静止と乱視』は断章形式の中編小説でした。大きな章立ての名前を女性の妊娠のフェーズ(準備期・進行期・極期・娩出期・後産期)に振り分け(ここらへんの要素はジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』につよく影響されている気がします)、各章にごくごく短い文章……「近所の乗り捨てられているハイエースのフロントガラスをハンマーで思いっきり叩き割る女性」「見知らぬ誰かのカーセックス」「パリで起こった爆破テロに居合わせた人の聞き書き」「どこかの誰かの宅飲みでのしょうもない会話の断片」「震災の記憶」「SRS(性適合)手術のダウンタイム中に自分史を書き直す人」「作者による独白」などがコラージュのように入り乱れ、組み合わさった作品です。
当時わたしは性別移行の真っ最中。心身の変化としてはいちばん苛烈な時期でした。抗男性ホルモン剤と女性ホルモン剤を併用し、肉体下で男性ホルモンと女性ホルモンの大きな抗争が起こっていた。ホルモン剤による副作用というのか変化というのか、服用による心身の変調には個人差が(おそらく)あって、たぶんわたしはそこそこ重めの部類でした。服用し始めた最初の1〜2ヶ月はあまりにもキツくて外に出るのも恐ろしく、家に籠もってだいたいを布団のなかで過ごしていました。当時はシェアハウスで映画学科の同期と二人暮らしをしていたのですが、ずいぶんと心配をかけたはずです。
とても小説を書ける状態ではなかったけれど、書かないと卒業できないし、なんとか形にしないといけない。まず真っ先に思ったのは「自分のことを書こう(というか、それしか書けないだろうな)」ということでした。けれど、自分のこと(端的に言うとトランスジェンダーとしての生)を書くにしても、自分のこと/トランスジェンダーとしての生が見世物のように読まれたり、下世話な気持ちで受け止められたり、センセーショナルな内容になったりすることに対しては慎重でありたい、とも思っていた。
あらゆる文章表現は、どうしたら自分の書いたものを真に受けてもらえるか、知らない人にまじめに精読してもらうためにはどうすればいいか、という問題を解決することなしには機能しない。そもそも読んでもらえないからだ。だから、教養がつくよ〜、お金持ちになるよ〜、人生がときめくよ〜などなど、読んでもらうための動機をあれこれ調達してくる必要がある。
―柿内正午「随筆時評」(『随風03』所収)p.94
「トランスジェンダー当事者が書いたトランスジェンダーの物語/私小説」。うん、たしかに、読んでもらえそう。2010年代中ごろの日本なら、なおさら。右も左もアライもターフも、みんなヨダレ垂らして読みそうだよね。けれどわたしはその看板で(それのみで)書いたものを真に受けてもらうことに対して非常に警戒していました。忌み嫌っていた/いるとすら言えるかもしれない。
(余談ですが、『ホームページ』裏表紙の推薦文を書いてくれた大学の後輩である駒田隼也もまた、卒業制作の小説に関して、わたしとは違う方面から”自分の書いたものを真に受けてもらう”ことを考えていたようです。2025年9月21日(日)大垣書店高野店にて開催されたトークイベント「鴨川の鳶は芥川賞の夢を見るか? ──『鳥の夢の場合』刊行記念 駒田隼也× 江南亜美子×大澤聡」にて、京都芸術大学教員でもある江南亜美子が当時の駒田の卒業制作について述懐する一幕がありました。曰く、駒田は卒業制作を“どんなものを書いても必ず読んでもらえる場/発表形態”と見定め、あえて読みづらい、難解な、実験的/チャレンジングな作品を卒業制作として提出したとのこと)
それで思いついたのは「すべてを等価に書こう」というもの。SRS手術による身体の変調(当時はまだなんの外科的処置もしていなかったので、正確には自分のことではなく将来起こりうること、になりますが)やリハビリテーション、トランスジェンダーの多くが心療内科でのカウンセリングの途上で半ば強制的に書く/書かされることになる”自分史”(トランスジェンダーの多くはその身体変化/治療の途上で医師というたったひとりの読者のために私小説めいたものを書かされることになるのです。ウケる。おもろいっすよね)、それらと「ハイエースをハンマーで叩き割る女性」「パリでの爆破テロ」「宅飲みの会話」「誰かのカーセックス」「震災の記憶」をバラバラに書き、編み合わせ、繋がりが掴めない/掴ませないまま景色の充溢/奔流として提示し、すべてを等価に/すべてをセンセーショナルに/すべてを日常にしてひとつの作品とする。そうすれば、たとえ自分のこと/トランスジェンダーとしての生がありありと描かれていたとしても、読み手はそこに過度に注目しないのではないか、「中西◯◯(わたしの男性名)」が見世物にならず、下世話な暴露話にもならず、作品として”ちゃんと”読まれるのではないか。そんなことを考えていました。考えていたけれど、先述の通り「そうとしか書けない」状態であったこともたしかで。『静止と乱視』に関しては意図が先にあったのか必然性が先にあったのか自分ではよくわかっていません。私小説に限りなく近いもの。けれど読めば読むほどに”私/わたくし”からは遠ざかっていくもの。とにかく『静止と乱視』はそのように書かれました。
その試みが成功したのかどうか。わたしの感触としては「大失敗」でした。講評前/校了前の卒制諮問では教授陣から「あなたはこれから先も”こういうもの”を書いていくの?」「トランスジェンダーの話をこれからも書いていくの?」「”こういうもの”を今後も書いていくとなると、あなたには厄介なレッテルがつくことになる。それは書き手としての将来を狭めるよ」「それに、”こういうもの”には受け継がれていくものがなにもない。あなたがやろうとしていることには後に続く書き手も現れないし、先達もいないでしょう。どうするの」というようなことを言われ、その後の講評では主に学生からの感想や指摘が「SRS手術やその後のリハビリテーション」「震災の記憶」に集中し、教授陣からは「いやあ、ダイレーションなるものが、あるんですね。知らなかったですよ。棒をね、穴にこう、挿れて……」というような言及も相次ぎ、どこまでいってもわたしがトランスジェンダーとしての生を書く以上、そのセンセーション/私性からは逃れられないのか……と愕然としました。また、卒制講評中、別の生徒の作品の講評時間に、たまたま隣に座っていた教授に「これは素朴な疑問なんですが……。親から貰った肉体、とくに性器を、外科的処置によっていじくることに関して、親に申し訳ないといったようなことは考えないんですか?」と質問されたこともあります(わたしはそのとき、「たとえばガンで内蔵を摘出しないと生きられない身体になったとき、その内臓を摘出することに対して”親に申し訳ない”なんて考えますか」と答えました)(念のため書くと、わたしは別に当時の記憶をもとになんらか告発をしたいわけではありません。『ホームページ』所収「墓守とハルマゲドン(誰が墓穴を掘るのか)」にも書いた通り、叶うことなら出来る限り、記憶をただ記憶として書きたい。加害や被害の文脈から逸れる形で、ただただ出来事を書き連ねていきたい。人の記憶はそもそもが加害と被害のレッテル可貼性にまみれているとわたしは思っています。大事なのは、それらを加害や被害として語ることでも、すべてを語らないことでもなく、ただ記憶として淡々と語ること、切り刻み旨味を取り出し素材にしていくことだと思っています)。まあ、10年代中ごろ(2015〜16年)の世間一般のジェンダーマイノリティに対するまなざしなんて、そんなものです(と言ってしまうのも些か雑すぎるかもしれませんが)。それにわたしは性別移行を開始させるまで言動も見た目もあまりにも”男子”でした。そんなわたしが目の前で日に日に”女性らしく”変化していく様を見て、わたしより一周りも二周りも、いやそれ以上年長世代である教授陣や事務方たちはさすがに動揺していたのでしょう。
『静止と乱視』は(これもまた過去の栄光すぎますが)「Student Award」という学内生徒の投票型の賞と「同窓会特別賞」というOB・OGによる投票型の賞をいただきました。ありがたいことに些少ながら賞金があってややホクホクとした気持ちにもなりましたが、同窓会特別賞の審査コメントには「性同一性障害といった過激な題材を選びながら過激さには寄らず日常感覚を忘れないで描けている」点が評価に値するといった旨が書かれており、それにも疑問を抱きました。日常感覚?それを、忘れないで描けている?だってわたしがわたしとして/トランスジェンダーとして生きているこの日々は、日常そのものなんだけど……。
ショートスパンコール(と、『起こさないでください』)
歌集『起こさないでください』の制作が始まるより前、大学卒業後まだ京都で暮らしていたころ、わたしはどこに発表するでもなく(いや、SNSには投稿していたかもしれないな)ショートスパンコールと称した掌編小説のシリーズを書き始めていました。手術費を貯めるためのバイトバイトバイトの日々でなかなかまとまったものを書く心身の余裕がないなか、足掻くように短歌と掌編小説の制作だけは続けていた。
『静止と乱視』の制作、およびその後の様々な(それでいて画一的な)反応は、わたしのなかにデカい課題として居残り続けました。どうしたら、わたしの話ではないものとしてトランスジェンダーの生が書ける(いや、読ませることができる)だろうか。トランスジェンダーの登場人物を書くにあたって、それがわざわざ選定されたものではないと思わせる(いや、なにも思わせない)には、どうしたらいいんだろう。シスジェンダーの書き手がシスジェンダーの男や女を小説に書いても、人はなにも特別なことだとは思いません(まあ、最近でも、たとえば村上春樹なんかは“女性を主人公にした初の長編小説”なんてわざわざ銘打たれたりしていますが。けれどすくなくとも、シスジェンダーを書くことに対してはなんの感慨も抱かれないはずです)。わたしは当たり前にトランスジェンダーを描きたい。なんの感慨も抱かれずに、過度な言及を受けることなく、なんらか宣伝文句にもならないような形で、それでいて真正面から、書く。そこには『エイプリル』に対する個人的な反省も含まれていた/いるのでしょう。ショートスパンコールの制作は『静止と乱視』を”完成”させるつもりで着手しました。『静止と乱視』では不十分だったのかもしれない。もっと景色を充溢させる。もっとあらゆることを、たくさんの登場人物を、さまざまな語りを、形式を、音楽アプリで手前勝手に作られたプレイリストのように雑多に書き繋げ、編み上げる。その数年後に出版された歌集『起こさないでください』は、わたしにとってその制作の副産物のような立ち位置でした。『静止と乱視』からのショートスパンコール(feat.『エイプリル』の反省)のカップリングとしての『起こさないでください』。カップリングゆえに(カップリングゆえに?)『起こさないでください』はすくなくない人から「トランスジェンダー(または性同一性障害)当事者が書いた歌集」という語られ方をして、出版当初はずいぶんと悔しい思いをしたのをよく覚えています。「じゃああんな本にするなよ」「トランスのことなんて書かなければいいじゃないか」と言われそうだし思われそうだけど、それもまたわたしの望むところではありません。トランスのことはあたりまえに(シスジェンダーのように)書く。書きつつ、売り手や読み手がそのことを指して本の紹介や感想を書けないようにする(キャッチーな言葉で作品を語ることを構造によって積極的に阻害させる)。「仲西森奈」の作品はすべて、一貫してそう在ることを目指しています。
長編小説「どこに行ってもたどり着く場所」
長編小説「どこに行ってもたどり着く場所」(以下「どこ行」)は、本屋lighthouse発行の雑誌『灯台より』で連載され、それだけで1編の長編と言ってしまってもいいくらいあまりにも長い終章「そんぐらいん」が書き下ろされた形で『ホームページ』に収録されました。
本屋lighthouseの関口さんがわたしに「雑誌になにか連載しませんか」と声をかけてくれたのは、たしか2020年の年始ごろ(まだ国内でコロナ禍が始まるよりすこし前)でした。『起こさないでください』が刊行されて間もないころですね。もしかしたら短歌連作の連載を想定しているのかもしれないな……とは思いつつ、わたしは関口さんに「小説の連載でもいいですか」と問い、関口さんは二つ返事で快諾してくれました。
当初考えていたのは「『静止と乱視』≒ショートスパンコールの真逆をやってみよう」ということでした。どこまでいってもわたしのなかには『静止と乱視』で残った課題がつきまとっていたんですね。さまざまな/バラバラな景色や語りを充溢させるのではなく、極力情報を隠匿し、景色を書かず、すべてを書かない。語り手の性別も、それがどういった目的で駆動している物語であるかも、他の登場人物の名前や情報もほとんど書かない。出来る限りわからないように書く。それを実現させるためには日記という形式が有効である。そう考えました。
日記はなにより、読み手が書き手ただひとりであることを受け入れやすい形式です。そのような前提で書かれることを日記自体が(すくなくとも、小説よりは)素直に受け止めてくれる。自分ひとりのために書く日記に、わざわざ(書き手以外の)読み手に対して説明的な描写を書くことは通常しません。その性質を積極的に利用することにしました。こういう思考回路はもしかすると『エイプリル』のころから変わらないのかもしれません。わたしは『エイプリル』のころと同じ手つき・別の仕方で、日記という秘匿を逆手にとることにしたのでした。日記の書き手である西山陽(ちなみに西山陽や作中登場するA,B,C,Dの名前は連載当初から決定していました)(が、「そんぐらいん」の構想が決まるまでは、最後まで全員の名前を出さない/明かさないつもりでもいました)の一人称は「自分」とし、連載版の「どこ行」では『ホームページ』版以上に「”日記”体小説」としてラディカルであろうとして「書き損じ跡のような意図的な誤字と打ち消し線」「”手術”などの言葉を禁句にしてすべてぼかした言い方にする」など、一読しただけでは小説のなかでなにが巻き起こっているのかわけのわからない造りになっていました(書き損じの手法は筒井康隆の「北極王」という短編を参考に。後述する随想数編と「どこ行」に登場するA,B,C,Dというイニシャルについては福永信『星座から見た地球』を参考にしました)。
もうひとつ。これはここまで書いてきたことと矛盾しているかもしれないし、明確に説明できる意図や理由はほとんどなく勘で決めた方針なのですが、“あなた”に向けて/想定して書くことも最初から決めていました。その”あなた”とは、後々書くことになった終章「そんぐらいん」において語られた”あなた”のことです。「そんぐらいん」を書くに至るまでに”あなた”の細部の設定(たとえばそれがいま生きている人間であるのかすでに亡くなっている人間であるのか、など)や日記の書き手/西山陽と”あなた”の距離感(会ったことがあるのかないのか、など)は微妙に変化していきましたが、それだけはわたしのなかで決まっていました。西山陽の日記に読み手がいるとして、それは陽自身と”あなた”のみである。ショートスパンコールと「どこ行」はわたしのなかで『静止と乱視』で残った課題に対するふたつの極となり、そのような決め事のなかで作品は書かれていきました。
(ちなみに陽はアルファベットにするとYou。つまり”あなた”になります。正しいスペルはおそらくYohですが……。「そんぐらいん」において、Slackでの会話の描写では意図的に陽の名前をYouと表記しています。ほとんど言葉遊びですが、西山陽が”あなた”をある種内面化していることをそれとなく/暗に示したつもりです)
(もうひとつちなむと、砂留敦也のX/TwitterアカウントのIDはSly_notsry。Slyはサリュウの略で、sryはSorryの略です。つまりこのIDの意味は「サリュウは謝らない」「サリュウは悪くない/悪びれない」になります)
「私事と時事」、いくつかの随想、『ホームページ』
とはいえ「どこ行」は連載第3回目あたりから早々に行き詰まっていきます。理由はいくつか……というかある意味しょうもないのですが、日々の生活のなかで調子を崩してしまったんですね。さまざまな出来事が重なって、段々とうまく働けなくなってしまった。それに呼応するようにして「どこ行」を考える余裕もなくなっていきました。「どこ行」と並行してショートスパンコールの書籍化の話も進んでいて、そっちに必死だったのもあります。なんにせよ体力の限界だったのでしょう。
そうこうしているうちにわたしは金沢へ引っ越しました。引っ越してからもさまざまな人間関係に揉まれ、あっぷあっぷしていたころ、関口さんから「『Web灯台より』でなにか書きませんか」という打診を受けます。いや、「なにか」ではなく「『どこ行』の続きを『Web灯台より』で書きませんか」という打診だったような……。わたしは「『どこ行』の続きを想定しているだろうな……」と思いつつ、またもやその想定をフル無視して「短歌連作とプレイリストの連載をしてもいいですか」という提案をし、関口さんはまたもや二つ返事で快諾。こうして「私事と時事」(『ホームページ』所収の、「トカゲ・インタビュー」以外の短歌連作)の連載が始まりました。
「私事と時事」に関して書けることはそんなになくて、とにかく「あの時期あのころ自分にできた精一杯の制作だった」に尽きます。金沢での日々を生き、北國新聞を読み、その月ごとに書けるだけの短歌と、短歌連作に寄り添うようなプレイリストを作る。死なない。ただひたすらそれだけに腐心しました。
ああでも、ひとつだけ。「拝啓、無料版、」は、りゅうちぇるの訃報に触れた数日後に制作/発表したものです。「無料版」とはざっくりSNSのこと。「TOP(はじめに)」にも書きましたが、わたしはなにも知らないし、ファンでもなければ、なにかを捧げる義理もない。けれど(うまく言えないのですが)りゅうちぇるの訃報はわたしに強いショックを与えました。それと同時に、りゅうちぇるの訃報に触れる形で「あなたはひとりじゃない」「共にいます」「そばにいるよ」「頼ってください」といった(なにもかもが手遅れになったあとの)”無料版の”連帯の言葉に激しい憤りを感じました。ふざけるな、と。ひとりだよ。だれが共にいるんだよ。そばにいねぇよ。頼らねえよ!!!!!!!!!と。ほんとうに連帯するつもりなら、お前が殺すつもりで、トドメを刺すつもりで、その覚悟でこいよ。ただで助けられてたまるかよ、と。めちゃくちゃなことを言っているようですが本気でそう思っていました。「拝啓、無料版、」がりゅうちぇるの訃報に触発されて作った「死者への連作」ならば、その次に発表した「べあーず・はず・かむ!〜ぼくらの夏の一里塚〜」はその逆、「生き延びてしまった者/生者への連作」です。「私事と時事」において明確に自分の(捧げるべき読者を想定したうえで)スタンスを顕わにしたのは、この2作のみです(能登半島地震の直後に発表した「あなたは」に関しては、地震に触発されて作ったとはいえ先に書いた2作ほど明確にスタンスが定まっていたわけではありませんでした)。
「私事と時事」の連載が1年ほど続いたころ、関口さんから「『私事と時事』を本にしたいですね(『どこ行』とまとめるような形でも!)」といった打診が届きました。
ここまで読めば/読まずともわかると思いますが、『ホームページ』制作におけるMVPは間違いなく関口さんです。関口さんがいなければ「どこ行」も「私事と時事」も生まれなかったし、わたしが『ホームページ』という本の形態を思いつくこともなかった。
わたしは正直、「どこ行」に対して挫折感を覚えていました。心身の不調が主な理由で書きあぐねていたとはいえ、事実、行き詰まりを感じていた。この何もかもが隠匿された「”日記”体小説」を書き連ねていくことによってどんな景色が最終的に立ち現れてくるのか、というよりなんらか景色が立ち現れる可能性があるのか、まったく信じられなくなっていました。たぶん関口さんだけがなにかを信じていた。そんなふうに自分の書いたもの/書いているものの行く末を信じてくれるような存在にはじめて出会ったように思います(いや、そんなこと言ったら、これまで出会ってきた人たちに、映画を撮ろうと言ってくれた幼馴染に、『静止と乱視』が学長賞を逃してわたしより悲しんで泣いてくれたあの同期に、出版社さりげなくにかつて在籍していた面々に、失礼かな。でも、そう思ったんだもの)。『パラノーマル・アクティビティ』を劇場で観たときの明るい気持ちが再び胸に兆していた。逆手に取ればいいんだ。
いくつかのピースがそこで急にカチッとハマった。「私事と時事」を連載していたころ、ありがたいことに青土社から依頼があって『現代思想』に「Coco壱と国鉄 あるいは野良のフェムテック」を寄稿したり、出版社BEACON(当時はまだ出版社ではなかったですが)から依頼されて『生存報告誌BEACON』に「竹といくつかの(いくつもの)疵」を寄稿したり、サンリスフィルムから依頼されて映画『ピンククラウド』のパンフレットに「桜雪」を寄稿したりと、わたしにしてはとてもめずらしく執筆仕事がぽつぽつ舞い込んでいた。掌編小説である「桜雪」は別として、随想/エッセイである他の2編に関しては「これは、誰もそうと気づかなかったとしても、わたしのなかでは続き物として読めるようにしておこう」という意識で書いていました。A,B……というイニシャルを忍ばせ、出来事の時系列を整えた。誰もわたしの散逸的な寄稿文を本にまとめないだろうから、せめて自分にだけはわかるような形でリンクを貼っておこう。自然とそういう書き方をしていました。その、随想のなかで書かれたA,B……というイニシャル(≒実在の人間)と、「どこ行」で書かれたA,B,C,Dというイニシャル(≒小説内の人物)が、もし一冊の本のなかで溶け合うように読まれるとしたら……?
そこから「これは、この本は、”ホームページ”になるかもしれない」と思いつくまでは一瞬でした。わたしは「『私事と時事』を本にしたいですね(『どこ行』とまとめるような形でも!)」という打診に対してまたしても関口さんの想定を無視し、「こういう序文を最初に載せて、いくつか書いてきた随想も全部収録して、ホームページでいくのはどうすかね!」と、一気に書き上げた「TOP(はじめに)」の初稿を添付してメールを送りました。関口さんはまたしても二つ返事で快諾してくれました。快諾しすぎです。
枯れた文化の水平思考/編みなおし
話は変わって、わたしがはじめてホームページを作ったのは小学5〜6年、11〜12歳のころ、
西暦で言うと2003〜04年のころだったと思います。
(ここらへんの話はもしかしたらイベント当日に話したほうがいいのかもですが、思考の整理と素材の共有も兼ねて一旦書き出してみます)
パソコン自体に触れたのはそれよりさらに前、遡れるだけ遡ると、かつて父方の祖父宅にあった(主に叔母が使っていた)デスクトップPCになります。
幼稚園生のころから触っていた記憶があります。OSはWindows95だったかな……、ダイヤルアップ回線の音が懐かしいです。
実家にPCが登場したのは小学3〜4年のころ。父がなぜかノートPCを購入し、あっという間にわたししか触らない物体と化しました。そのときのOSはWindows Meです。
それからしばらく経って、父の友人にPCにかなり詳しい人がいて、その人からデスクトップPCを譲ってもらいました。OSはXP。ホームページをはじめて作ったときのPCです。
(余談ですが、その父の友人からPCについていろいろと教わっている際、「ダウンロードバーをじっと見ているのがすき」と言ったわたしに対して「才能あるよ。素質がある」とその父の友人は言っていました。教わったことは何一つ忘れてしまったけれど、なんでかその言葉だけはよく覚えています)
それから中学高校に上がって、いっときパソコン雑誌『Windows100%』にドハマリした時期がありまして、
生意気にもちょいちょい購入していました。付録のCD-ROMにアプリが入っていたりと楽しい雑誌だった記憶。かぶれにかぶれてLinuxOSをインストールしてみた時期もあります。まったく使いこなせませんでしたが。
「建築物」という友田さんの言葉には概ね同意/同感で、その上でわたしにとってのホームページは「レゴブロックのような、遊びのレンジが途方もないおもちゃ」のようなものだったんだろうな、と思いました。
あるいは「建築物」だった時代を経て、わたしの世代でホームページは「レゴブロック」的になった……ということでもあるのかもしれません。
だからわたしのなかではきっと、中味と容れ物という(分かたれているはずの)ふたつの要素が渾然一体となっているのだと思います。
(これがわたしの世代にある程度共通する感覚なのか、わたし固有の感覚なのかはまだよくわかっていません)
そして、わたしがなにかを作り、書く、その最初の経験となったホームページがそのようなものだったからこそ、
『ホームページ』やそれ以前の自著があのような形になっているのではないか、とも思うのです。
―2026年4月12日開催のイベント「仲西森奈×友田とん「”視線”を編みなおす」」の打ち合わせとして友田さんに送ったメールより抜粋
のちに『エイプリル』を撮ることになる幼馴染とわたしは、小学5〜6年ごろから高校生の終わりごろまで、ふたりでホームページを作成・運営していました。先に書いた森崎よしこさんとも、のちにそのホームページの「相互リンク」で出会うことになります。
インターネット、あるいはホームページ、さらに言うならテキストサイトの歴史から見ると、わたしの世代はだいぶ後発だったと思います。それでもまだまだ10代20代が新しくサイトを立ち上げ、活動していく空気は残っていました。企画系テキストサイトと称し、ずいぶんとしょうもないことを面白おかしく文章に残していた。ドライブスルーでスマイルを注文したらどうなるかだの、万能ネギはほんとうに万能なのかだの、オレオレ詐欺と対決してみただの、自転車で1日かけてどこまで行けるかやってみようだの……。その後のYoutubeの繁栄とYouTuberの誕生はわたしの目には「テキストサイトの次世代」として映りました。みんな(みんな?)、文章でおもしろおかしくやることをやめて、映像へ行ったんだな、と。
(もっと言うと、わたしにとってコンセプチュアル・アートや現代アートは、高校〜大学生当時、テキストサイトやYouTuberの延長として映りました。あるいは逆に、コンセプチュアル・アートや現代アートの延長としてテキストサイトやYouTuberが映った。だからわたしはコンセプチュアル・アートや現代アートを良くも悪くも軽率に好いています。田中功起の初期作品である「Everything is Everything」や田中偉一郎の「こけしいきいき」、Chim↑Pomやキュンチョメの初期作品群、柳幸典の「The World Flag Ant Farm」なんかは、当時、テキストサイトやYouTuberを好くように好きでした)
ホームページを幼馴染と立ち上げ、管理運営し、日々の投稿文/テキストを考えていく作業は、わたしにとって創作/制作の原点でした。同世代の人々の創意工夫や切磋琢磨、その痕跡をはじめて垣間見たのもホームページです。そこにはたしかに”なにか”があった。文章って、テキストって、こんなに笑えるんだ、という鮮やかな爆発があった。そこには、ではないな。わたしのなかに”なにか”があった。その”なにか”がこのまま無かったことにされるのはちょっと耐え難いかもしれない。ホームページは、テキストサイトは、その文化は消えたって構わない。というか、いずれは淘汰され消えていく/消えている。けれどホームページ/テキストサイトが培った”なにか”は、継承されてもいいんじゃないか。もうどこにもない”あの場所”には、再検討されるべきものはほんとうになにも残っていないのか。そんなことはないんじゃないのか。
金沢に引っ越したばかりの沈滞した日々のなか、しぜんとおのれの過去へ過去へと思考が伸びていたわたしはいつしか「わたしがいまほんとうにやりたいのは、”ホームページ”なんじゃないか」という仮説に達していました。それも、WWW上ではなく、いま立ち上げられる場所で”ホームページ”を立ち上げる。それは本なんじゃないかな、と。
総武線、遷移文学、段駄羅
まず、「千葉」を語ろうとしたときに”路線”という区分がマストになってくるということ、そしてその路線によって「どこまでを千葉と感じるか」あるいは「どこからを東京として異質なものと捉えるか」が変わってくるということだ。総武線沿線の仲西さん、鉄腸さんは三鷹や吉祥寺のほうを千葉の延長的にとらえていたが、わたしにはその感覚はいっさいなく、むしろ京成線ユーザーだった頃の経験から、そのポジションには上野がいる。また、京葉線沿いに引っ越したいまでは、なにをするにもまず一度終点である東京駅に出てから乗り換えるというのが定番になっており、東京と千葉をシームレスに飛び越えてゆくような感覚はあまりない。わりと派手に江戸川を越える景色が車窓に広がるというのもあって、「ここまでは千葉」「ここからは東京」を正確に区分けする感覚が、日々の通勤通学で植えつけられてゆく——この感覚こそが京葉線を日々使うという営為なのかもしれない。
それと同時にわたしにとって総武線こそが〈千葉的なるもの〉の本質であり、京葉線をまがいものとしてとらえていることも自覚した。第一に京葉線沿いは歴史の浅い埋立地であるし、ディズニーや幕張メッセ、ららアリーナがあるためにひとびとが住まい暮らす街というよりは、外からひとがやってくる土地である。だから、千葉に生きる者の生活が根づいた感じがしないのだ。総武線沿いをたまに訪れると、古くから受け継がれてきたであろう生活のにおいにくらくらする。とはいえ近年では海浜幕張や南船橋に(タワー)マンションがどんどん建てられており、生活の場所としての京葉線沿線の土台もつくられはじめていっているように思う。とくに南船橋は、マンションとららアリーナがかなり密接な位置に建てられているため、ハレとケがかき混ぜられた土地になっている。ららぽーと内のロピアは近隣住民がふだんの買いものに訪れるいっぽうで、ららアリーナでのライブの前後にららぽーとを散策する観光客的なかれらも通りがかる場所である。海浜幕張や舞浜以上に、日常と非日常が入り混じる場所として、南船橋は(まがいものとしての)千葉を語るうえでの鍵となってくるのではないか。
六実、前貝塚町・塚田、鎌ケ谷、西船橋、本八幡・市川……。わたしにとって千葉は
「いちばん長く暮らしたはずなのにいちばん何も知らない、そしていまやいちばん心理的に遠い、けれどきっとわたしの人格・人生の根幹にある土地」といった感じなんだと思います。
(だからわたしは自著で千葉の地名や土地を折に触れて書き続けているのだと思います)
「いまやいちばん心理的に遠い」と書いたのは、実家も「前貝塚町の祖父宅」も既に存在しないからです。
実家(といってもわたしが帰ることのない場所)は現在東京の曙橋付近にあり、父方の祖父もすでに亡くなって久しく、祖父宅は手放されています。帰る場所が千葉にはないんですね。
だからこそ、(漠然とした話ですが)わたしは千葉を知りたい。出会い直したい。わたしはわたしがなんだったのかを知りたい。
……これはかなり利己的な動機ですが、そう思っています。おふたりの話を聞きたい。千葉の話を聞きたい。みんなの千葉を知りたい。
―2026年4月11日開催のイベント「仲西森奈×丹渡実夢×済東鉄腸「記憶みたいな千葉をめぐって ――市川、船橋、幕張、松戸――」の打ち合わせとして丹渡さん・鉄腸さんに送ったメールより抜粋
(ところでこの、ここまでの一連のテキスト/記事。ひたすら長いうえにずっとわたしの来し方行く末みたいな内容で書きながら不安になってきたんですけど、不安を無視してもうしばらく書き続けてみます)
『ホームページ』という本があのような構成になったのは、わたしが千葉(北西部)に出自を持つことにも遠因があるように思います。幼少期から10代の終わりにかけてもう何度乗ったのかわからないJR総武線の、あの、どこまで行ってもここが千葉なのか東京なのか判然としない/どこまでも千葉が希釈されていくような乗車体験。それは身体感覚にも影響を与えているはずで、
いこう【移行】(制度などが)うつりゆくこと。
せんい【遷移】①うつりかわること。②〔生〕一定の土地の植物群落が時間の経過に伴って不可逆的に変って行く現象。草原であったものがやがては森林となる類。最終的に安定する状態を極相という。③〔理〕量子力学において、ある系の状態が、一つの定常状態から他の定常状態、ある確率をもって移ること。
―広辞苑第五版
……という文の流れのなかでこの話を書くことにどこまで妥当性があるのか、話として繋がっているのかよくわからないのですが、わたしはほんとうはおのれのトランジションを”性別移行”ではなく“性別遷移”と言いたいし書きたい。そう思うに至る気持ちの流れのなかに千葉で過ごした時間、総武線という体験があって、性別遷移のさなかにも心身が変化していくことにどこか醒めた感情を抱き続けていたかつてのわたしは、さながら東京に立身出世の夢を見ることがほとんど不可能なまま東京に呑み込まれていく千葉のようだった。
強いて言うならわたしは越境文学ではなく、遷移文学を書きたいと思い続けているのかもしれません。それは「LGBT文学」でも「クィア文学」でも「トランス文学」でもない。というより、そう語られてしまうとこぼれ落ちてしまう”おもろさ”をわたしは取りこぼしたくない。先にわたしは母校の教授の言動に対して「告発したいわけではない」と書きましたが、正確には”笑ってほしい”と思っている。”おもろい”な、と思ってほしい。それがむずかしいのはわかっています。「不謹慎は罪」という民間療法は3.11で爆発的に広まりましたから。でもわたしは、わたしにまつわるあらゆる出来事に対して、おもろがってほしさしかない。
この構造は、作中に登場する段駄羅という短詩の構造と相似をなしている。段駄羅は、能登半島輪島の漆塗り職人らのあいだで局所的に流行したという五七五の短詩である。二重の意味を持つ中の七音をはさんで、上の五音と下の五音とが並置されるのだが、上五と下五は意味上の接続をなしていない。むしろ、上五と中七、中七と下五とで成立する文章の指示内容が隔絶していればいるほど優れているとされる文芸だそうだ。
―柿内正午「随筆時評」(『随風03』所収)p.112
甘党は 羊羹が得手/よう考えて 置く碁石
―島谷吾六
『ホームページ』は、わたしなりに、トランスジェンダーとして生きたこれまでの年月において経験/知覚してきた”おもろさ”を構造として詰め込んだ本でもあります。意味が、文脈が、これまで読んできたものが、景色が、記憶が、形態が、「私」と〈私〉が、読み手のなかでいつのまにか/たしかに遷移していく。“性別”が”変わる”?それってめっちゃ”おもろい”じゃん!そんな感情、そんな記憶、そんな願望、そんな時間を、できることなら本として/ホームページとして、だれかに味わってほしい。段駄羅/もじり句とはすなわちダジャレ遊びです。文献によると、当時の輪島の漆塗り職人はみなお喋り好きの噂好きで、職場はそれはそれはやかましかったそう。そんななか、ちょっと考えるのに時間と思考を要する段駄羅があれば、みんな黙って仕事をする。段駄羅とは「お前らちったあ黙ってろ!笑」という上長の思惑も相まって広まった文芸なのです。なにそれおもろ。それってわたしみたいだ。わたしの肉体みたい。石川の図書館で偶然、段駄羅の文献を見つけたとき、ここに来てよかったとはじめて/心から思いました。
“あなた”がもうこの世にいないということを認める
「どこ行」の”日記”体を終章「そんぐらいん」でやめたのには、いくつか理由(と勘)があります。
ひとつは、「そんぐらいん」以外の章を改稿/推敲していくにつれ、「主人公/日記の書き手/西山陽は、わたしが思っているより自分を秘匿したいとは思っていないんだろうな」あるいは「わたしは必要以上に西山陽に秘匿を強いているのかもしれないな」と思ったこと。「どこ行」の連載当初、わたしは「作中人物/架空の人物にもプライバシーはあるよな」「それを作者であるわたしが過度に犯していいものだろうか」というようなことを考えていました。これについてはいまも明確な答えがわたしのなかにあるわけではないし、まだ悩みのなかにいます。けれど「どこ行」改稿/推敲中、「語りたいと思っている人物を作者が過度に抑えつける/秘匿を強いることだって、よくないかもしれないよな」とも思いました。西山陽はもっと語りたがっているのではないかな、と。
もうひとつは「日記をやめたあとの西山陽を書きたくなった」こと。日記をやめたあとの人物の語りも”日記”体なのではないかな、と思ったんですね。そうすると、秘匿が裏返ることになる。西山陽は金沢での暮らしで、かつて書いていた日記を秘匿するように生きている。そして砂留は、ほとんどすべてを秘匿したままひとりで問題を抱える。その様を書いてみたくなった。
砂留という人物を書けたことは幸運でした。彼に出会えて、ほんとうによかった。(これを言ってしまうと蛇足というか興醒めというか、書いても書かなくてもいいような情報かもしれませんが、砂留にモデルはいません)。
蟹崎という人物、それから、汽車鉛という人物を書けたことも、わたしにとっては得難い経験でした。ふたりはわたしの本名(旧名と、いまの名前)のアナグラムによって生まれた人物です。
蟹崎と汽車鉛というふたりの人物が生まれるまで、「そんぐらいん」は西山陽と砂留のふたりがひたすら対話していき、お互いの問題を解決していく、いわばサリンジャー『フラニーとズーイ』のようなイメージで書かれていました(物語の道具立て/対話の手段として、公衆電話とテレホンカードが使えるのではないか、みたいなことも考えていました)。しかしそれも早々と行き詰まり、まったく書けなくなった。それでひたすら考えた結果、「砂留の問題を、西山陽は解決できないな」という結論に達したんです。それは西山陽の問題を砂留が解決できないということでもあって。つまり、誰の問題も誰も解決できないんです。「そんぐらいん」は徹底的にそういう話であろう、と決めました。誰の問題も解決させない。問題を問題のまま書き続ける。踏みとどまる。そういう話として。
話がぶっ飛びますが、それはわたしにとって「”あなた”がもうこの世にいないということを認める」ことでもありました。”わたしにとって”が西山陽にとってとイコールなのか、わたしにはわかりません。わたしは西山陽ではないし、西山陽はわたしではないので。
終わりに?
「そんぐらいん」で一箇所だけ、実際に起こったことを(そのときの感情も含め)ほとんどそのまま書いた箇所があります。それはいちばん最後の部分。老人が登場するくだりです。
わたしはそのころ金沢に引っ越したばかりで、同居人とふたり暮らしで、閉館間際の石川県立図書館の外、喫煙所にいました。家に帰りたくなかった。このまま帰らずに、犀川の河川敷にでも行って、野宿しようか。そんなことを考えながらタバコを吸っていました。そこに老人が来た。
けれど、とわたしは思った。ここにはわたししかいない。
わたしがいなかったら、誰がこの老人の話を聞くのだろう。
誰があなたの声を聞くのか。
―仲西森奈『ホームページ』p.547
はじめから「書こう」と思っていたわけではありませんでした。いつだったか。西山陽がバーで吐いたあたりで自然と「最後はあの老人がやってくるのだろう」と思っていました。あのときの気持ちを忘れたくなかった。いや違う。忘れてもいいように、「そんぐらいん」はあのように終わったのだと思います。