『ホームページ』補遺 あるいは誰か(にとって)の一里塚

『ホームページ』補遺 あるいは誰か(にとって)の一里塚

拙著『ホームページ』が刊行されてから来週で約1ヶ月。まだそれしか経っていないのかと正直驚いている。この間いろいろなことがあったような気がするし、そうでもないような気もする。とりあえずは選挙があった。結果は誰もが知る通り。ちなみにわたしは今回(こんなことをここで言ってもわたしに何の得もないし堂々と宣言することでもないのだが)誰にも投票しなかった。つまり棄権だ。こんなに積極的な態度で棄権したのは初めてかもしれない。種々様々に存在する野党に投票する気には到底なれなかったし、与党に投票してもしなくても結果は見えていた。高市自民を支持しているわけではないし、終末論的な”戦前”言説や絶望のポジショントーク、投票行動に対する断罪めいた感情論にもうんざりしていた(白票や無効票や棄権に意味はないからやめておけという束縛的な言説にもうんざりだ)。おまけに雪で道はぐずぐずだし風邪も引いている。そんな具合で。拙著にまつわる事柄としては文学フリマ京都に出展したり、大垣書店のPodcastに出演したり、自主販促企画を立ち上げたりと、ありがたいことにバタバタさせてもらっている。

Podcastに出演して拙著に関して諸々語ったときも、柿内正午の日記を読んだときも、あるいは刊行前からの予感としても抱いていたのだが、『ホームページ』は語ろうとすればするほど本としての造り、ガワの部分/コンセプトの部分しか語れなくなってくる。もしかしたらそれを打破する読み手が今後現れるのかもしれないが(きっと現れるだろうと信じてもいるし、柿内さんは春に出る『随風03』で拙著について言及してくださっているようだ。たのしみ)、現時点での感覚としては「厄介な本だぞこれは」といったところで、わたしはこの本について語りあぐね続けている。中身で作品で語れば/語れていればいいのだ、と言えば聞こえはいいが、そのような背中で示す態度は昨今(いや、もう随分前からとっくに)通用しないだろう。甘え。驕り。作家の怠慢。そう捉えられてもおかしくない。自主販促企画を立ち上げたところでそういった評価からは逃れられないだろう。そんな気がしている。

だから、……というわけでもないなこれは。わたしはいまたぶん”書きたい”と思っている。言葉としては出てくるけど文章になっていかないもどかしさがある”ここ最近考えていること”を、無理矢理にであっても。そういえばくるりの新譜が出ましたね。1曲目のタイトルは「たまにおもうこと」。

正直「これが『ホームページ』の概要です」「これが『ホームページ』の主題歌です」とでも言ってしまいたくなるような曲だ。あるいは「そもそもこの本のタイトルは『ホームページ』ではなく『変奏』だったんですよ」とでも言いたくなるような。

『ホームページ』所収作品のうちいくつかは、くるりの楽曲が制作や発想のささやかな始点/支点になっている。そもそものはじまりは『現代思想2023年5月号 特集=フェムテックを考える』(青土社)へ寄稿した「Coco壱と国鉄 あるいは野良のフェムテック」の制作過程での偶発的な連想と思いつきだった。「Coco壱と国鉄」はざっと要約すると「タイの国有鉄道の切符とカレーハウスCoCo壱番屋のレシートが”トランスジェンダー”や”フェムテック”といったキーワードで束の間結びつく」という内容なのだが、当初はこの随想に“段駄羅”や”ソングライン”や“羽咋のUFO伝説”“舳倉島に漂着したロシア兵”といった(金沢へ引っ越してから得た知見を主とする)べつの要素と連想をさらに混ぜ合わせ、もっと得体の知れない内容にするつもりでいた。上記要素のうち“ソングライン”とはオーストラリア先住民であるアボリジニに代々口伝される歌(及びその歌によって示される道)のことで、わたしはこの言葉とその意味をくるり『ソングライン』をきっかけに知った。結局その構想は主に紙幅の関係で自主的に却下され、「Coco壱と国鉄」でこぼれ落ちた要素と連想は『ホームページ』所収の他の作品に流れ込んでいくことになる。

転がりながら、こぼしながら、こぼしたものを後続に拾わせるようにして書き連ねた軌跡が『ホームページ』なのだとして、この文章もその流れのなかにあるのだろう。ここから先はいわゆる”雑感”。まだわたしのなかでまとまっていないあれこれ、拙著刊行前からいまに至るまで薄ぼんやりと思考を覆っていたある傾向、ここ数日の思い、そんなことどもをいびつに列挙していく。執心に従う心身に人生を委ねたその先にある光景。いまわたしは何を思ったのだろう。

  • 東京(のような人口過密地帯/都会)で起こっているのは多様性の醸成ではなく淘汰のプロセスなのではないか
  • マイノリティを”守って”くれるのはほんとうに”左派”か(あるいはマイノリティは”守って”くれることを望んでいるのか)
  • 与党に投票する層が”安心”と”達成”を求めているとして、(リベラル左派寄りの)野党が対抗するには終末論的な言説ではなく別の”安心”と”達成”が必要なのでは(”クソったれ”とか”吐き気がする”とか漏らしたり、支持できない施政者の言動を嫌味ったらしく糾弾したりしていたらシンプルに逆効果なのでは)
  • (主にリベラル左派的な思想を持つ)当事者ではない人≒マジョリティがトランスジェンダーを”理解”したり”味方”だと思ったりするためにフェミニズム的な方向性をトランスに照射することはよくあるが、トランスジェンダー≒フェミニストではない。という事実をどれだけの人が認知しているだろう(当事者ではない人≒マジョリティはトランスジェンダーを”善”に包括できる存在としてしか守れないが、当事者は己が”善”であろうが”悪”であろうが守らなければいけない。そのアンバランスをどう見るか)
  • “レインボープライド”と”トランスジェンダー女性”の食い合わせの悪さ
    • 雑にカテゴライズした上で語るのを許してほしいが、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー女性、トランスジェンダー男性のなかで、ヘテロセクシャルなトランスジェンダー女性だけがヘテロな男性にのみ性的に惹かれる(身も蓋もなく言うと”男とヤりたい”し”男とくっつきたい”し”男と添い遂げたい”)。
    • これが何を意味するかというと、ヘテロなトランスジェンダー女性はセクシャル/ジェンダーマイノリティのなかで唯一、圧倒的な/トップオブマジョリティである”ヘテロ男性”と積極的にコミュニケーションを取りたいと思っている。言い換えると、シス/トランス女性×シス/トランス女性のペア(レズビアン)もシス/トランス男性×シス/トランス男性のペア(ゲイ)も、個人としてもペアとしてもマイノリティなのだが、トランス女性×シス男性のペアだけ”彼女側はマイノリティだがペアとしてはマジョリティ”という組み合わせなのだ。そして、すくなくないヘテロなトランスジェンダー女性はそのペアを志向する。これが意味するところを大衆がどれだけ読み解けるだろうか
    • 端的に(とっても身も蓋もなく)言うと、すくなくないヘテロなトランスジェンダー女性にとって”レインボープライド”的な空間は居心地が悪い(据わりが悪いと言い換えてもいいかもしれない)のだ。しかしではヘテロなトランスジェンダー女性はどこへ行けばいいのか。そのひとつの答えとしてわたしは”地方”があると思っている。
    • けれどそれは、わたしが東京→金沢へやってきて恋人と出会った、というある種の成功体験による生存者バイアスでしかないとも思う。都心で生まれ育った者による軽薄な感情であることも自覚している。
    • トランスとしての身体感覚や来し方をこうして言葉にしていくと、結局当事者であることによる”実感”に言葉や外部からの思考は打ち勝てないじゃないか、みたいな気分になってくる。そうではないと信じたい。
  • だから(だから?)わたしは最近(というか数年前から)リベラル左派的な側に明確につく人々、フェミニズムなどなどに対して、身体的にかなり不信感を抱いている。ここで言う身体的とは「トランスジェンダーとして生きているわたしとして」みたいな意味だ。彼ら彼女らはたとえばわたしのような人を”善”や”正しさ”でしか肯定しない。わたしは、悪としてのトランスが肯定されうる状況を思考したい(たとえそれが車輪の再発明めいたものだったとしても)
    • でもかと言って右派的な、保守的な思想になびいているわけでもない(と、思っている)。中道でもない(たぶん)。わたしのような人を明確に眼差している層が、いまこの国にはどこにもないと感じている。
  • なんにせよ、「やらない善よりやる偽善」という、『鋼の錬金術師』で登場したあの有名なセリフ(もしくは2ちゃんねる発祥と言われている「しない善よりする偽善」)は、もうとっくに賞味期限が切れていると思う。今の世はきっと、「やる偽善」に誰もがうんざりしている。
    • だとして、先日の選挙でリベラル左派的な政党が大敗した要因のひとつは、長い年月をかけてリベラル左派が提示できたのが「やる偽善」以外になかった、ということになるのではないか。
    • 善、悪、偽善、偽悪、のなかでいま、偽善はいちばん価値が低いのだろう。偽善をやる限りリベラル左派は廃れ続ける。問題は、偽善を行う側がもはや自分たちの行いが善なのか偽善なのかも判別できない(メタ認知に乏しい)ことにあるだろう。
  • ところでどうして”地方”なのか。ひとつには(これもまたとっても身も蓋もなく言うと)”意識の低さ”がある。あるいは福尾匠『置き配的』を最近読んだ上での語彙としては”意識の疎らさ”と言い換えてもいい。都会は意識が過密すぎて、どこへ行ってもどう有ってもどう振る舞っても自分が自分である≒トランスジェンダーであることが可視化されすぎる。意識のなかで存在感を主張しすぎる。それは当事者にとって(違う。わたしにとって)常にオーバーヒートに近い状態で暮らすことを意味する。
    • “地方”では、自分が自分であること≒トランスジェンダーとしての自分を”忘れる”ことができる(もっともこれはおそらく”地元”とイコールではない。”都会”でも”地元”でもない”地方”……ということになるだろう)。言葉にする必要も、意識に上らせる必要もない。……というのは言い過ぎかもしれないが、ずいぶんと気楽であることはたしかだ。”地方”の人々が”トランスジェンダー”を”東京(のような人口過密地帯/都会/都心)に生息する生き物”として意識の外に置き続ける限り、わたしはここで気楽に生きていける。トランスジェンダー女性にとってそれは不可視化とはわけが違う。シスジェンダーとして生きていける≒パスの難易度が下がるということだ。
    • それはもしかしたら、地方出身者が上京に見る夢のような感情とは真逆の感情なのかもしれない。狭い共同体のなかで”みんな”として溶け込みつつ無視されていく個を掬うために人は都会へ出ていく(のかもしれない)が、マイノリティは(というよりすくなくないヘテロのトランスジェンダー女性は)(いや違うな。このわたしは)あらゆる角度から雑多に掬われていく個に膜を張るために狭い共同体へ行き”みんな”に溶け込むことを望む。
    • ものすごく単純化して言い換えるなら、マジョリティはエキストラ状態からキャラクター(主要登場人物)状態へと移行することを望み、マイノリティはキャラクター状態からエキストラ状態へ移行することを望む。これに関してはトランスジェンダー女性に限らずすくなくないマイノリティ全般がなんとなく思っていることなのではないかと感じるのだが、どうなのだろう。勘でしかないが。
    • だからわたしはカミングアウト(そして言わずもがなアウティング)には当事者にとっての救いも未来もあまりない/乏しいと思っている(これは、わたしがカミングアウトという行為に対して”アウティングされる前に先手を打つ消極的自己開示”以外の価値を見出だせていないから余計にそう思うことなのだろう。カミングアウトはカミングアウトで暴力の一種なんじゃないか、とも思っている。バラされるくらいなら自分からバラす。当人にとってそれ以外のポジティブな意味って果たしてあるのかな。『呪術廻戦』における“術式の開示”のようなメリットが)。忘れること、溶け込むこと、”埋没”すること、語られないこと、考えないこと、意識が低い/意識が疎らな場に身を置くことに救いも未来も(どちらかといえば)ある。と、いまのわたしは感じているし信じてもいる。
    • もうひとつ。都会的なコミュニティでは往々にして適用されがちな「マジョリティかマイノリティか」という分類/ポジショントークは地方ではぐずぐずになり「仲間かそうでないか」という分類に置き換わる。排他的ではある。保守的でもあるだろう。しかしひとたび仲間になれば「マジョリティかマイノリティか」という分類は溶けてなにがなんだかわからなくなっていく。「”忘れる”ことができる」とはそういうことだ。
    • それにしても、わたしがこうして公に語り、ものを書き、仲西森奈という筆名/キャラクターが知られていけばいくほどわたしは生きづらくなるわけだ。こんな矛盾ってないよな。けれど、そうだと思っている。
  • マイノリティであることを忘れたい。”プライド”を捨てたい。あるいは””レインボー”プライド”を捨てた先にしか”このわたしのプライド”はない。
  • 昨年(2025年)、谷崎潤一郎『細雪』を読んでいた数週間はほんとうに充実していた。最高の読書だった。去年読んだ本のなかからベストワンを決めろと言われたら『細雪』を挙げるかもしれない。
    • 〈この人の訛がことに著しく、この地方特有の、「たい」を「てゃあ」、「はい」を「ひゃあ」という風に発音するのがおかしくてたまらず、老人の口からその音が出るたびに三人眼を見合せて死ぬ苦しみをしているうち、「先祖のお位牌」と云うのを「先祖のおいひゃあ」と云ったとたんにとうとう笑いを爆発させてしまい、義兄の辰雄に苦い顔をされた〉
      — 谷崎潤一郎『細雪(全)』(中公文庫)p.592
    • 読みながら爆笑してしまった。悪童じみたふるまいすぎる。昨今のショート動画で見られる「〜〜で死ぬ‼️」みたいなノリって昔からあったんだろうな。「先祖のおいひゃあで死ぬ‼️」という合成音声が聞こえてくるようだ。
  • わたしの身体にも生理が来れば。子宮があれば。と言うと「お前は生理のつらさ/痛み/面倒臭さ/金銭的負荷を何も知らない」「いいですねそんなお気楽なこと言えて」「代わりに生きてみますかこの身体で」みたいなことを無限に言われそうだが、わたしからするとそれらを言える(言う資格、言えるだけの肉体的経験を有している)ことこそがわたしの望むところですよ、と思うわけだけど、それを言うとまたさらに「何も知らないで〜」という反応が来ることは明白で、話は平行線を辿る。
    • かつて飲食店で働いていたころ、トイレのサニタリーボックスのビニールの色(たしか半透明の白だった)が気になるから黒にしよう、という意見がバイト仲間の女子数名から出てそのように変わったのだけど、わたしはそれがかなりショックだった。(仮にも女性であるのに)(生理という現象がわたしに起きないために)気付けない、発想にない、ということに愕然とした。もちろん誰にもそのことは言えず、当時は密かに、ひとりでかなり打ちのめされていた。
    • 「トランス女性は女性です」という言葉は、そういうとき無力だ。違うだろ。女性じゃないだろ。トランス女性は、トランス女性なんだよ。と、たぶんそのときに初めてはっきりとそう思った。
    • 「トランス差別に反対します」「トランス女性は女性です」といったハッシュタグ、宣言を、わたしはあまり快く思っていない。言ってみればそれは「やる偽善」だからだ。言葉の無力さ、行為の伴わなさに対する消極的な恩赦。わたしはわたしで、あなたはあなただ。そういう意味で、わたしは「トランス女性はトランス女性です」となら言ってもいいかなと思っている。いや、どうかな。それすらもいっそ、忘れてしまえたら。

作品集
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刊行:2026年1月26日
価格:2700円(税別)

本文:572p

印刷:モリモト印刷
装丁:仲西森奈
組版:関口竜平
発行:本屋lighthouse

ペーパーバック|四六判