
301号室
電話かけてきたことありますよね、出町柳のファミリーマートから、酔っぱらって、灰皿の傍にたぶんしゃがみこんでいて、そのときわたしは家にいて、何の話をしたのかは憶えていない、というか何言ってんのかほとんどわからなかったんですけど酔ってたから、どうして電話がかかってきたのかも、何も憶えてないんですけど。憶えてますか?
忘れたくない。忘れてもいい。だから書いている。
ベランダから雪が見える、屋根に積もる雪が、この町は高い建物がないから、三階の部屋からはたいていの屋根が見える、屋根に積もった雪は踏まれないからきれいに残る、陽を遮るものがないからすぐに溶ける。まぶしい。これは朝の記憶。つねに寝不足で、頭痛薬がなければ起き上がれなかった日日の。それから、夜が白けだすころの、どこかの窓から小さな音で聴こえてきた唄のことを思いだす。夜の川は想像していたよりも暗くてすぐに帰ったこと。思いだす。飲み屋で隣に居合わせただけの奴に、あんたは心身が健康そうだからもの書きにはなれないだろう、と言われたこと。思いだす。Kと並んで星を見たこと。思いだす。挽きたての珈琲豆の匂い。思いだす。いまにも雨が降りだすころ。思いだす。いない気配。思いだす。Sが涙をためている。思いだす。ユニットバスに体育座りして湯を浴びつづけたこと。思いだす。まず忘れるのは声だからできるだけ聞いておこうと集中する。目を閉じてしまう。目をあける。目が合う。
雪は隘路に町は記憶に溶け残りラナンキュラスは眼裏を消す
この道もあなたと歩いたことがある。記憶は暴力だ。立ち止まって、不自然なほどうつむく、力いっぱいうつむく。正確ではないかもしれない、大きな声を出したい。代わりに息を、限界まで吸い込む、姿勢をもどす。ポケットに手を突っ込んで歩く。指先が痺れている、冬だから、いつも肌は悴んでいる。正しいと思う。息を吐くたびに目の奥が熱くなる。熱がある。寒いから自覚できる。
ふゆ 雪に足暴くのは はるなつあき 季節は歩くときに前を向く
ジェラートピケのパジャマを貸してくれましたよね、この部屋で、ここに座って、引越すまえに飲み切りたいと言って酒瓶を、キッチンの戸棚から出してきてくれたこと、わたしは自分がジェラートピケのパジャマを着ていることが可笑しくて、似合わんのよ、もこもこのパジャマ、何色でしたっけ。壁にはいろんな紙が貼ってあって、煙草を吸うから壁は黄ばんで、紙を剥がしても跡が残った。窓の建付けが悪くてガタつくのをまだ直していない、キッチンの換気扇が弱すぎるのもそのまま。お金がないのにまた花を買っている。ほんとうのことを話せば軽蔑するだろうか。思いだす。パジャマを借りた数ヶ月後に、ナカニシさんは東京に引越して、わたしはその部屋に転がりこんだ。一緒に暮らしたわけじゃないけど、わたしたちが暮らした部屋。301号室。
紫明通はわたしにとっても特別で、あの街路樹にまぎれているあいだ、目を閉じているのかひらいているのかわからなかった。風、風、天気雨、川の音。季節の違いもあまりよく憶えていない、いつも静かだった、誰もいなかった、誰とすれ違っていても関係なかった、あの場所には、誰もいなかった。なぐさめるではなく、はげますでもなく、耐えるならここで耐えればいいというような樹があった。風があった。雪が降った。
会いたい。というのは不思議な慟哭だ。幽霊にならないといけない
わたしたちの/ふゆに/いきをしろくするだけなのに、てを/かじかむだけなのに/うとましいとおもうのに/ねこぜになってあるいた/わたしたちの/め/に/かげをさがす、たねを/あかす/りょううでをひろげてむかえてもらったこと/わたしたちの/べつべつの/きおくが/ふゆに/め/に/むすばれてゆくようです/あざやかなままではのこれない/ふれたこともない/のに/ゆえに/とはいわない/つながない/どこからも断たれて/わたしたちの/未来を未来を
その一秒、一秒、一秒ほどの時間。
顔を合わせるたびにこみあげてくるもの、わたしがあなたと呼ぶひとり、どこで目をひらいても傷がつく。視力は少しずつ確実に悪くなっている、遠くのものからぼやけだす。でも別にいいのか、近くのものが見えているならそれで充分だと思えるか。体は制御できる部分が少ない、なら耐えるのはいつも心か、傷がつくから思いだせるのか。目をあける。目が合う。笑ってしまう。いまなんて言ったの? どうしてそんな表情をしたの? 風が強くて聞き取れないけれど、あなたが何を言っていてもうれしい。うれしいよ!
※太字は仲西森奈『ホームページ』(本屋lighthouse)より引用。
山内優花(やまうち・ゆか)
1993年大阪府生まれ。京都府在住。
京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)文芸表現学科中途退学。2024年の「ユリイカの新人」に選出される。著書に詩集『きせつきせつ』(2024)、『約束にしない』(2025)。
機嫌がいい。
