永谷園
伏子は眠れない。眠れないことを伏子は嘆かない。サメのぬいぐるみを枕元に置いて、目を瞑って、四肢の力を抜いて、しばらく経っても意識が退かないとき、伏子は潔く起き上がる。ベッドから降りて、スリッパを履いて、キッチンへ向かう。眠れないときは永谷園、と決めている。ケトルに浄水を充填して、よどみないフォームでスイッチをいれる。キッチンに置いてあるヘリノックスのアウトドアチェアに腰を下ろして、伏子は今日、久々に顔を合わせた会社の後輩を思い出す。家に籠もりっきりのあいだ、後輩はなにかに取り憑かれたように、もしくは目覚めたように、サンドイッチばかり作っては食べ作っては食べしていたらしい。いみわかんないくらいすべてを包んでくれるんですよ。気づいちゃったんです。とは後輩の談だ。伏子さんはありますか、過激にひとつのなにかを食べ続けたこと。後輩にそう訊かれるまでもなく伏子の頭には永谷園の三文字が浮かんでいたが、どうだろ、とはぐらかした。伏子の、永谷園に対しての想いを知っているのは、姉の平子だけだ。永谷園の、あさげ、お茶漬けの素、それらのcmに登場する、味噌汁やお茶漬けをシンプルな背景と荒っぽいカメラワークのなかただただ貪るように啜り喰う男が、伏子の初恋相手であり、いまもなお揺るがない理想の男性、ひいては理想の人間像なのだった。cmの男がお茶漬けをがつがつ食べているそばで、黒電話が鳴り続けている。その黒電話のダイヤル部分に、油性マジックで「ただいまお茶漬け中」と書かれた紙を叩きつける男。伏子はそのcmを初めて観た翌日、初潮を迎えた。ケトルの温度が上がってきた。常夜灯だけをつけた仄暗いキッチンで、伏子は自らを抱くように、臍の前で腕をクロスさせて縮こまる。やってくる。やってくる。永谷園がやってくる。ビデオテープに録画し、DVDにダビングし、パソコンに取り込み、YouTubeにアップロードし、継ぎ足し継ぎ足しの秘伝のタレのようにソフトを変えハードを変え観続けてきた永谷園のcmの男が、伏子の身体にやってくる。ケトルの中のお湯はふつふつと動き出し、伏子は立ち上がり、炊飯器を開ける。常夜灯に照らされた湯気の奥に、眉間に皺を寄せながら白米に喰らいつくcmの男の姿が見える。