湯たんぽ
なにに喜んでいるのかわからないまま笑ったり、なにに悲しんでいるのかわからないまま涙が出たりすることが増えたな。そう思いながら、頬をじじじと下降する涙を、男の子は手の甲で拭って、煙草の火を消した。いつもの消灯時刻から、既に1時間半が経過していた。男の子は、キッチンの隅に立てかけてあった亜鉛メッキ鋼板の湯たんぽを掴んで、シンクに置いて、浄水を注いだ。最近、思い立って、直火で加熱できる湯たんぽを買って、うれしかった。飲み会で、同僚や上司の前で朗らかにそう言った男の子に、放たれたまなざし。(笑)が見え隠れする空気。質問。それらを執拗に思い出し、思い出し、男の子は湯たんぽをコンロに置き、火にかける。男の子はぬいぐるみには手を出さない。なにか、負けた気がするから。誰に、なにに、負けたことになるのか、そこまで考える勇気は持てないまま。男の子はシンクに吊るされたゴム手袋の片方を手に取り、その中に水を入れる。ふくらんで、ぶよぶよになった手袋と、自らの手を、恋人繋ぎのようにして、男の子は湯たんぽを見下ろす。男の子には子宮がなかった。それを、あたりまえのことだとは、男の子は思わない。男の子には子宮がなかった。男の子には睾丸があった。男の子には白髪が数本生えていて、男の子には肩書きがあった。にやにや、にやにや、男の子の口角が、上がっていく。クソが。男の子は決めていた。布団に入り、電気を消した部屋の天井を見つめ、これから生きていくこと、これまで生きてきたこと、そのあいだにあるいまのこと、その中にある暖かな感情を、ひとつひとつ、数え上げること。消しゴムのような言葉や空気やまなざしに、明日も消されてしまわないように、鉛筆書きのような己の輪郭を、ボールペンのようにしていくこと。湯たんぽの内部が適温に達していることを、吹き出たお湯がコンロの火を消してしまうまで、男の子は気づかない。数分、消えていたから。