奥多摩(または合言葉)
ようやく荷解きが終わったんで、せっかくですから。疋田が酒の席でやたらとしつこくそう言うものだから、貴重な土曜日の午前中を移動に費やして、疋田が親のスネをかじり尽くして購入した奥々多摩のシェルターへと向かった。総武線で御茶ノ水駅、中央線で立川駅、青梅線で青梅駅まで来たころにはすでに身体中が重く、人目を気にせず青梅駅の懐古趣味的なベンチに寝っ転がりたくもなったが、ぐっとこらえて奥多摩行きの青梅線に乗って奥多摩駅に着いたころにはあと五分足らずで十四時が終わろうとしていた。御嶽駅を過ぎたあたりで一度疋田からの着信があったが、私のお腹も御嶽駅を過ぎたあたりから鳴りっぱなしだったので、疋田への連絡は後回しにして、奥多摩駅二階の蕎麦屋で山かけ蕎麦を食べることにした。
食券を買って、蕎麦屋のおばあちゃんに渡す。パリッとした割烹着姿で、和帽子から癖毛気味の白髪がはみ出ていて綺麗だし可愛らしい。食券を渡した約十二分後に、おばあちゃんの両手に支えられてどんぶりがやってきた。つやつやで焦げ茶色のおつゆにまだ四隅の角が輪郭を残したままの灰色の麺、その上に泡立つとろろとぴかぴかのネギ、お椀のふちでは刻まれたゆずの皮が控えめに漂っている。私の胃袋がこれから入ってくるであろう食塊に備えて伸びをするようにキューッと引き締まる。
いただきます。
お昼時を過ぎていたからなのか、お客さんは私一人だった。おばあちゃんは一仕事終えたような様子で、厨房のおじいちゃんと大声で話していた。
麺もとろろもネギもゆずもなくなり、残ったおつゆをすすっていると疋田から電話がかかってきた。
「いまどのへんですか」
「んん奥多摩着いたよ。駅駅」
「あ、ほんとすか。思ってたより早いですね」
「お前今日の夕飯どうすんの」
「お前今日の夕飯どうすんの」
「んむ。何」
「あごめんなさい、スピーカーで、先輩の声が反響してたぶん。ていうかさっきからそれ、なんの音ですか」
「ん、蕎麦。の、つゆ」
「一応、こっちでもいろいろ、用意してたんですけど」
「早く言えって」
「さっきかけたとき言おうとしたんですよ。あと爪楊枝は電話切ってからやってください」
「はい。はい。奥々多摩ってこっからどうやって行くのが一番早いの」
「えーっとそうですね……。いま御神木から入る道が閉鎖されてて」
「ねーなんか。ね。見たわTwitter」
「です。最近作られたゲスト用の入口があるんで、そこで落ち合いましょう」
ちょっと複雑なんで、一応メモとってくださいね。そう言われても、寝起きにまともな準備もせず家を出てきたから紙もペンもない。スピーカーホンにしたら、この会話を厨房のおじいちゃんおばあちゃんに聞かれてしまうかもしれないし。紙とペンを借りたりするのも、よくわからないが、手順違いになりそうな怖さがあった。疋田の説明にメモをとっているような相槌を打ちつつ、私は道順を何度も頭の中でシミュレートする。どうやら複雑なのは道ではなく言葉のようだ。丁寧に説明してくれた疋田に礼を言い、電話を切って立ち上がり、おじいちゃんと話し続けているおばあちゃんにどんぶりを返した。
「お嬢ちゃん、ここは初めて?」
お嬢ちゃん、ときたか。
「いえ、曽祖父のお墓があるので」
「あらあそうなの。どこから来たの」
「千葉から来ました。船橋市なんで、ほとんど東京みたいな感じですけど」
「へえーそうなの。遠いとこからわざわざねえ。でもここらへん、なーんもないからつまんないでしょう」
あるじゃないですか。
「あるじゃないですか。御神木……あの、三本杉とか。あと、わさび漬けも美味しいですよね、ここらへんって」
「あらあ若いのに渋いわね。あっ、漬け物だったら近くに美味しいとこあるわよ。ちょっとあんた、坂井さんとこのお店、なんて言ったっけ」
「あさがお……っ!!!」
さっきまで山かけ蕎麦が入っていたどんぶりを洗う手を止めて、おじいちゃんが大声で答えた。
「ここを出て、三本杉がある道をそのまま真っ直ぐ進めば着くわよ」
「ほんとですか。ありがとうございます。行ってみますね」
よしオッケー。あさがお。あさがおね。
蕎麦屋を出て駅を出て、おばあちゃんの指示通りに歩いた。奥多摩駅から、三本杉と呼ばれる御神木までは徒歩三分程度の距離。駅を出て丁字路を左に曲がればすでに、三本に枝分かれした杉の幹が、樹齢七百年を超えてなお、空も地表も覆い尽くさんばかりに枝葉を広げようとしているのがわかる。木の成長速度は目視では確認できない遅々としたものだが、この三本杉は私が見ているその場で、毎秒、成長しているように感じる。いや、他の植物も、植物以外だって、毎秒成長してはいるのだが。
寂れた肉屋やちいさなスーパーを横切り、十字路を国道四百十一号に沿って南西に曲がると、こぢんまりとした社には不釣り合いな高さ太さの幹が突如目の前に現れる。私は奥氷川神社の境内に足を踏み入れ、三本杉の前で手を合わせた。本当だったらここから地下に行けるはずだったのだ。それにしても、御神木を入口として、その真下に地下道を作るなんて、国も罰当たりなことを考えたものだ。まあそれが有効な過疎対策になるのだとしたら……、などと手を合わせながら考えていると、背後からざくざくと足音が近づいてきた。
「なにしてんの」
きた。
「きみ」合わせていた手を膝頭に置き、前かがみになって顔の高さを合わせる「お名前は?」
「デーヴAA」
広島カープの野球帽をかぶった男の子の発音ではそうとしか聴こえなかったが、ここで聞き直したらいけない。らしい。デーヴが名前でAAが苗字かな、と推察する。
「デーヴくん。あさがお、って漬物屋さん、知ってる?」
デーヴAAは赤べこのように何度も頷いて、社の方向を指差した。
「しってるよ。あのね。あそこからね。……ちかみち」
ついて来るかどうかは訊かずにデーヴAAは歩き出した。はじめから指示に従うつもりではいたので、早足で進むデーヴAAに歩幅を合わせてついていく。社の脇を抜けて裏の茂みまで行くと、一箇所、子供一人分ほどの横幅のけもの道があった。ここを通れということか。
「あのね。さっきここでね。でっかいムカデ。……みつけた」
言いながらデーヴAAはけもの道に入っていく。私も遅れをとらないようけもの道に入っていく。道幅は目視の印象より広く、身体をひねらなくても歩ける程度の余裕はあった。
「これはね、ノハラアザミ。これは。……ノコギリソウ」
草花の名前を指差し指差し言いながらデーヴAAは歩く。道を進み始めてからまだ数分しか経っていないはずだし、勾配のほとんどない道を進んでいるつもりなのだが、自生植物の種類が明らかに変わってきている。私はそれに動揺してはいけない。そういうことになっている。デーヴAAはしゃべり続けている。
「それでね。さかいのおばちゃんがね。ぼくのことノラネコとまちがえてね。おいはらおうと。……したの」
いつの間にか、坂井のおばちゃん、という人物の話になっていて、私は訳知り顔でふんふん相槌を打つことしかできない。ここで余計なことを言ってはいけない気がする。道はだんだんと広くなり、空は木々の枝葉で見えなくなっていった。日光が遮断されていっても不思議とずっと明るいのは、国がこのけもの道のために最新の照明装置か何かを木々や地面に埋め込んだから、だろうか。それとも緩やかに光量が減っていく中で私の瞳孔が同じだけ緩やかに広がっているだけ、だろうか。そんなことを考えている間にも木々の重なりはより複雑になっていき、枝葉で出来た天井はどんどん低くなっていく。道幅も再び狭まっていき、ついには私もデーヴAAも匍匐前進のような体制になって、もはやけもの道とは言えない茂みの隙間をずりずり進んでいる。デーヴAAも疲れてきたのか口数が少ない。地面をこする私の膝下をぶりぶり太った注連縄のようなムカデが五十はあるんじゃないかと思わせる足をなめらかに動かして這っていった。
それから五分ほど進んだだろうか。全身が土や枯れ葉でくすんできたころ、デーヴAAの身体がいきなり止まった。
「どうしたの」
「ここがね。……あさがお」
デーヴAAが進み出し、私もそのあとについていく。枝葉の天井はもう立ち上がっても問題なく歩ける程度には高くなっていた。ゆっくりと立ち上がり、歩き出すとすぐに視界が開け、円形の広場のようなスペースにたどり着いた。地面に生えている植物も芝草のようなものに変わっている。デーヴAAはどこだろう。辺りを見回していると、私が来た方向から見て左側、円形の広場の端の方に、小さな木造家屋が建っているのが見えた。
あれが、あさがお、ということだろうか。
ひとまず家の前まで行ってみる。遠くで小さく見えたものが近寄るにつれ実はそれなりの大きさだったことがわかる、ということはよくあるが、この家は近寄っても近寄ってもその小ささが変わらず、というよりその小ささのイメージが変わらず、歩いた距離と視覚の遠近感が噛み合っていないように思えた。瓦屋根、平屋造り。玄関はおそらく土間を広くとってあるのだろう。家屋正面部分の中心に引き戸の玄関口があり、正面に立つ私から見てその右側から、家屋の外周に沿って広縁が続いている。明らかに最近建てられたものではなく、雑な見立てだが築五十年はくだらないのではないか。玄関口の右脇には呼び鈴のボタン、左脇には錆びたポストがあり、ポストには《坂井》と書かれた表札がついている。
「おばあちゃんもデーヴくんも坂井って言ってたよな……」
しばらく考えてからためらいつつも呼び鈴を押す。リンゴーン。見た目に反して洋風な音が小さく反響する中、はーい、という柔らかい声がする。玄関の引き戸が開き、姿を表したのは疋田だった。
「遠いところからよく来てくれましたね。さ、どうぞ」
疋田の顔、疋田の身体が、女性の声、媚びを含んだ仕草で私に接してくる歪さに私は目を見開いた。おそらくこの人が坂井さんだろう。
坂井さんであり疋田のようでもある坂井さんは、私を玄関土間に招き入れるとすぐにパタパタと家の奥へと消え、割烹着のようなエプロンを付けてまたすぐに戻ってきた。上がり框に腰を下ろしてボロボロのスニーカーを脱ぐと、ついてきてください、という意味合いであろう目線と頷きを私に寄越して坂井さんは廊下を進み出し、私はそれに黙ってついていく。薄暗い廊下の突き当たりを右に曲がるとすぐに六畳ほどの茶の間があり、坂井さんは私をそこに案内してからどこかへ行き、私にお茶を出してまたどこかへ行き、たくあんを大鉢に山盛り持ってきてちゃぶ台の中心にデンと置いてからまたどこかへ消えていった。
「あの」
坂井さんが消えていった方向に話しかけた。
「なんでしょう。あっお茶とたくあん、美味しいですか」
「あ、……あ、はい」
手をつけていなかった。まずい。
「どうでしょう」
「あ、お、」湯呑に手を伸ばし、茶をすする。煎茶だ。「美味しいです」
たくあんもひと齧りする。あ、「美味しい……。たくあんすごく美味しいです」
「そうですか」
「はいあの、はい。とても」
「よかった。安心しました」
坂井さんの声は本当に柔らかい。だがしかし顔と身体は疋田なのだ。
「あの」
「なんでしょう」
「あの、ここって、あさがお、ですよね」
「はい、そうですよ」
「漬物屋さん」
「はい」
「わさび漬け、って、売ってますか……」
「ありますよ」
あとすこし。
「それ欲しいんですけど、おいくらですか」
ちょっと待っていてくださいね。坂井さんがそう言ってから、そろそろ二十分が経つ。
私はちゃぶ台に突っ伏しながら、何か間違っただろうか、もっと円滑にコミュニケーションを取るべきだったか、でもそれは果たしてどの段階においてだろうか、どこで間違えたのだろうか、説明不足だぞ疋田、と、今までの道筋を反芻していた。何度呼びかけても坂井さんは返事をしなくなった。物音や気配のようなものも消えつつある。青梅駅で感じた気だるさがよみがえってきた私は、ちゃぶ台に突っ伏したまま、うつらうつら、眠りの中に呑み込まれてしまう。