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日記

 日記帳に毎日欠かさず嘘しか書かない男の子がいた。友達とご飯を食べた日には「今日は一日中家にいて誰とも会わずに過ごした」と書き、朝から大学に行った日には「今日も一限に行けなかった」と書き、大好きなバンドが新譜を出した日には「音楽性の違いで解散してしまった」と書き、恋人と泣きながらセックスした日には「ここのところ恋人と会えていない」と書き、部屋を掃除して洗濯物を干して凝った自炊をした晴れやかな日には「下ろしたての長靴を履いてどしゃぶりの雨の中あてどなく歩き回っていた」と書いた。ごく平凡な男の子の、ささやかな反抗であり犯行でもあるような、それは日課だった。男の子がまだ文字の読み書きも満足にできないくらい幼かったころ、ネグレクト一歩手前だった母親の気を引こうと、虚実織り交ぜたその日のできごとや感情をしゃべっていた、しゃべろうと手足をばたつかせていた、その延長線上に日記があることを、男の子はまだ自覚していない。
 男の子は恋人と別れてしまう。別れを切り出したのは恋人で、セックスのとき、男の子が毎回泣いてしまうことが主な理由だった。なぜセックスのときに毎回泣いてしまうのか、男の子はわからなかった。恋人と抱き合うことが、抱きしめ合うことが、男の子はただただうれしくて、あたたかくて、安心で、だから泣いていたのだと、私なんかは思うのだけど、私がそのことを男の子に教えることはついになかった。恋人と別れたことがくるしくて、男の子は生まれてはじめて、日記帳にほんとうのことだけを書いた。でもほんとうのことなんて、文字にしてしまえばあっという間に書き終わってしまう。だから男の子が書いた何百、何千字の、小説のようなその日の日記に書かれているほんとうにほんとうのことなんて、せいぜい最初の百字もいかないくらいだ。そのことも、男の子はまだ自覚していない。私は男の子が自覚していないことのすべてを教えない。それでも私はこの男の子のことを応援している。がんばれ。